私は上手にあなたの役に立っていますか。
私は上手にあなたの力になっていますか。
私は上手にあなたの支えになっていますか。
「彼女の最後を知りに行く」
と、再び塔を上ろうと言い出したのはクローシェだったが、なんとなくきっと彼女ならそう言い出すのだろうなと、少し前から予想してる自分がいた。
朝起きて澪の御子の寝室に向かうと、寝巻きのまま、しかしその眼差しは鋭く真っ直ぐに、窓の向こうを見上げて立ち尽くすクローシェがいた。真っ白な朝日が差し込む窓辺にすっくと立ち、早朝の澄んだ空気をまといながら、その目はじっと新緑の大地を見つめている。
そんな姿を見たときから、きっと今日がそういうことなんだろうと勘が働く。
「ルカ、私と一緒に来てくれないかしら」
力強い決意の影に、かすかな恐怖が見えた。はっきりさせると決めたものの、まだ恐れは残っているようだ。
そんな妹の姿が愛しく思えて、もちろんだよレイカちゃん、と微笑みながら返す。それを見たクローシェは険しい表情をわずかに緩ませながら、「ありがとう」とつぶやいた。
その後、ルカと同じ調子で呼び出されたクロアも、その内容を事前に察していたのか、クローシェの提案にも特に驚いた様子もなく、いつもどおりにごく自然とクローシェの手をとり先陣を切って歩き出していた。
並び歩く二人の背中。いつも頼りにしているその背中は、今日も変わらずそこにある。
その背中を見て、昨夜のことを思い浮かべる。あの夜に見た二人の憂いと苦痛は、決意とわずかな恐怖に変わっているようだった。
メタファリカを謳いきり、悲願の新緑の大地を創生し、そしてその直後にあの塔に登って彼女を迎えに行ってからというものの、どうも妹クローシェの様子がおかしいことには気づいていた。
偉業を成したお釣りとばかりに、現実は怒涛の展開を押し付けてくる。メタファリカへの具体的な移住計画を軸に、新たな御子体制および政治体制の確立にともなう儀式や式典、制度や法律の整備のための会議や資料が山となって襲ってきたのだ。
それらを主に捌くのはクローシェの担当となったのだが、かといってルカが何もしなくていいわけではない。むしろ奔走する妹をサポートするべく、常に二人一組で行動し、妹の言動を影ながら支えるために、膨大な書籍や書類を読み漁り、難しい言葉の飛び交う会議にも出席し、苦手としている多くの人前に出る機会も数え切れないほどあった。
しかし、自分は特別発言をするわけでもなく、人前に出るわけでもない。それは妹の役目だった。
ただ妹の隣に立ち、妹の行動を観察し、時折眉根を寄せて押し黙る妹を見ては、自分の拙い感想や意見を伝えているだけだ。
はたして、そんな自分が妹の役に立てているのかどうか、全く自信がない。
それでもクローシェは何かあるたびに「一緒にいてほしい」といってくれる。こんな自分でも役に立てているのかと疑問に思いもしたが、最愛の妹が真摯にそういってくれる分には無性に嬉しく、出来うる限りその言葉に応えようとした。
そして、そのたびに自分の力のなさに落ち込んでいる。
そんな落ち着かない数日間、忙しさに殺されそうになっている妹が、ふいに現実から遠い何かを見つめるような仕草をするのに気づいた。それは特に、メタファリカへの視察であったり、天を突くアルトネリコの姿が見える場所を通りがかるときに限って、ふと視線を外して立ち止まる。
何を見ているのだろうと何度も声をかけようと思ったが、そんな顔は本当に一瞬でしまいこまれ、あっという間に現実を見つめる顔に巻き戻るので、どうにもタイミングがつかめない。
そんなときの顔は、本当に思い悩んでいる風だった。いや、あれはいっそ思い詰めている顔だ。
あんな顔を見せられては、姉としては非常に気になってしかがたがない。また、ほんのわずかとはいえ、今をときめく御子である妹が、些末なことに気をとられるのは社会にとって多大なる損失だ。
何より、そんな憂いが妹のためになるとは到底思えなかった。
もう一つ気がかりなことがある。クロアだ。
メタファリカ創設の後、御子二人からたっての願いもあって、御子が公的な場所に顔を出すたびに護衛として必ず同席し、脇に控えていてくれた。
そんな彼も、妹と同じく時折不思議な表情で、メタファリカやアルトネリコを見つめている。
しかし、何かに思いつめているような顔の妹と違い、彼の場合は何かに傷ついているような、苦痛に耐えているような顔をする。時には見ているこちらが、胸をナイフでえぐられるような痛みを感じてしまうほどのもので、とてもではないが黙って見ていられなかった。
だから、そんな顔を見せた瞬間を見逃さず、何も気づいていないように装って、なるだけ明るい声で話かけたりもした。
どうしたの? 長い会議でお腹でも減った? 私もうくたくたで。あんな議題で時間をとられすぎだよね。もっとクローシェ様みたいに何事も簡潔にお話できないのかな。ああほんとお腹減ったなあー。ラクシャクのレストランの日替わり定食が懐かしい! あのぴりっとした味のから揚げが美味しくってね――。
自分でもわざとらしいとは思っていたが、だからこそ何か言われる間に早口でまくし立てた。最初はいきなりの気の抜けたおしゃべりに目を見開いていたが、辛そうだった顔が微笑みに変わってくれたときには、少しばかりドキリとして浮かれてしまった。
そんな調子で一方的にまくしたて、クロアの方からも一言二言返事があって、あ、次の場所に移動だって、行こうクロア、ではいおしまい。
その後は、話の口実のためとはいえ、食べ物のことばかり言うのははしたないだろうかとか、会議に対して何も発言していない自分が、妹の名前を前に出しては一丁前のような口を聞くのは本当に最低だなとか、そんないつもどおりの反省と自己嫌悪。
次こそ私も何か言ってやるんだと心に決めて、わずかな移動や休憩時間を縫い、時には自分の飲み込みの悪さの代償として本来は睡眠にあてる時間も大幅に割り当てて、資料に目を通す日々を過ごしていた。
そんなある日、珍しくルカとクローシェが一日中別行動で過ごしていた、その深夜。
ようやく自分の担当であった部分が終わり、誰もいない宮殿の廊下で、誰の目にも触れないことをいいことに盛大に背伸びしあくびをしながら、自室に戻ってこのカチカチで棒のようになってしまった足を丁寧に慰めてあげようなどと考えていた時のこと。
ふいに、視線の端に白い影が見えた。場所は、鐘撞き堂への階段に近い廊下の端。このあたりは古くからある建物なので、あちらこちらに非常に年季の入った作りで、あまりの雰囲気の出来上がりっぷりに、すわ幽霊か、と身をすくませる。
怖がっている割に、つい好奇心で柱の影から顔を出す。幽霊を見たと面白おかしく話すならば、クローシェやクロアももう少し緊張の抜けた笑顔をしてくれるだろうか。
「って、クローシェ様?」
ささやかな算段をはじきながら幽霊を見届けようと覗き込んだ先には、その幽霊話をしてあげようと思っていたクローシェ自身が、ふらふらとした足取りで廊下の向こう側を横切っていた。
あの先には何があっただろう。毎日毎日、散々練り歩き走り回っていた宮殿の見取り図と照らし合わせる。
「……」
考えうる限り、あの場所しかありえないだろうという結論に達する。その瞬間、チャンスだと思った。久方ぶりの姉妹水入らずの機会だ。そう理由付けている頃には、クローシェが消えた曲がり角に向けて駆け出していた。
そういえばかつては毎日のように夜に二人だけでおしゃべりしていたというのに、メタファリカが成功して以来、そんなささやかな交流も忙しさと睡魔に負けて今ではすっかりなくなっていた。どうやら私たち姉妹間においては、メタファリカは二人の仲を引き裂く悪魔らしい。可愛らしく愛しいだけにより小憎たらしい小悪魔か。
……そんなことはどうでもいい。どうでもいいことをいちいち考えてしまっては、理屈をつけている自分が嫌だった。
どうでもいいどうでもいい他の事はどうでもいい。今はこのチャンスを逃す手はない。私と妹の間に入り込めるものなどありはしない――
新月の夜のような色の瞳が、辛そうに細められた様子が脳裏をよぎる。
――あ、と声を漏らすと同時に、かかとでブレーキをかけてUターン。確かあの瞳の持ち主は、今日はもう帰るから、と言っていた。それも随分前に聞いた。今はパスタリアの自宅だろうか。
ついでだ。ついでというには彼のこともルカにとって非常に重要な要素ではあったが、クローシェだってそれに負けてはいない。ある種、どちらもどちらかのついでとも言える。こういうのを一挙両得というのだったか。
何はともあれ、ついでに彼もこの機会に呼び出そう。そしてどうにかして、手段も方法も何も具体案は浮かばないが、ともかくどうにかするのだ。
現在の場所から彼の自宅への最短距離をはじき出しながら、一日の労働で疲れきっていたはずの足を全力で動かした。
「クロア!」
突き飛ばすようにクロアの家の扉をあける。ノックもせずに無礼だとは自分でも思ったが、逸る気持ちが止められなかった。
いつもの私服に着替えていたクロアは、深夜の来訪者に驚いた顔で振り返る。
「何かあったのか!」
血相を変えて飛び込んできた御子の姿を見て、緊急事態だと思ったらしい。脇にあった愛用の槍に反射的に手をかける。
しまった、と思わず言いそうになる。緊張をさせに来たのではない、ごくごく穏やかにお話しするためのお誘いに来たのだから。
弾む息を整えるフリをして時間を稼ぐ。深刻そうにこちらを見つめる幼なじみの表情に少々の罪悪感を覚えながら、次の句を探した。
「あ、ええと、違う違う。違うのクロア。そうじゃなくて、そういうのじゃなくてね。えへへっ」
失態を誤魔化すように、できるだけおどけた風に見えるよう大げさに手を振って、その手に持った物騒な槍をおろさせる。
「……なんだっていうんだ?」
変化の激しい幼なじみの様子についていけないのか、腕を組んで首をかしげる。
今度は別の方向で警戒させただろうかと、内心冷や冷やしながら言葉を続ける。
「あのねっ、星が綺麗だから、一緒に夜のお散歩しながらお話したいなーって」
「散歩? 話がしたいなら、別にここでだって」
怪訝な色がさらに深くなる。そう、彼だって今日一日働き通してようやくの帰宅、今だって心底疲れているはずだ。貴重な睡眠時間を削ってまで外に連れ出すには、それ相応の理由が必要だろう。
理屈を通すことにかけては向こうの方が上だ。だからここは勢いで押し切るしかない。
「えーっとね、ここからでも星がすっごく綺麗なんだけど、せっかくだからちょっとだけメタファリカに行って見てみない?」
「メタファリカ……って、いくらルカでも勝手に立ち入るわけにはいかないだろう」
「そうなんだけど、でもほんのちょっとだけでも行ってみたいなーって。だって私たちが紡いだっていうのに、実は全然自由に見せてもらえないじゃない。今の時間なら宮殿のあの辺にも誰もいないし、私たちならロックを開けて中に入れるし、星が綺麗だし――ねっ」
言葉だけで説得できると思えなかったから、両手を胸の前で合わせて、なるだけ気弱そうな顔をつくる。
冷静な視線が一瞬ひるんだのを見逃さなかった。幼なじみが押しに弱いのは誰よりも知っている。もう一押しついでに釘も刺す。
「だからね、お願いクロア。二人だけでお話しない?」
「だけ」を強調して少しだけ意味深な言葉を使ったこと、結果的に二人ではなくなること、貴重な機会に2階で眠っているであろう妹分を起こしてまで連れて行こうと言い出すことを事前に封殺したこと、などなど、積もり積もった罪悪感をちくちく刺激されながら、必殺の上目遣いではっきりと「おねだり」した。
少しだけ頬を染めて、眼鏡の奥の視線がちょっとだけ横に逸れる。
やった、と内心拳を握って、更に内心もう一言。クロアのスケベっ。
インフェル。
数百年前に眠りについていたフレリア様に成り代わり、世界規模での魂の昇華を引き起こして、世界に生きる全ての人々に緩やかな停止を与えようとしていた人。その計画の停止を賭けて私たちは戦い、勝利し、彼女からメタファリカを紡ぐ許可を得た。そして彼女は、肉体ではなくインフェルピラのデータとして存在していた彼女は、メタファリカの創生とともに変質するインフェルピラの機構に巻き込まれて、この世から完全に消し去られた。
正直言うと、自分の中で「インフェル」とはそういう人物だった。これだけで説明できる存在だ。
そんな彼女相手に、二人は何か思う部分があるという。いや「何か思う部分」などというには、具体的かつ強烈な思い入れがある。
クローシェは、彼女への感謝と、その意思を継いだものとしての迷い。
クロアは、彼女を通して己の言動を省み、苦しんでいる。
あの夜、二人は私を前にしてその心情を吐き出した。そのときの二人は、共に涙を流していた。彼女のことで、どれだけ迷っていたか傷ついていたのか、その姿を見ただけで痛いほどに理解できた。
助けてあげたかった。その傷を癒してあげたかった。少しでも気を楽にしてほしかった。支えになりたかった。
私にそれが出来ただろうか?
二人を前に、思わず勢いだけで行動をしてしまった。
妹の迷っている真意に気づいてあげられなくて、なんて頼りにならない妹だろうかと呆れられたかもしれない。迷っているときに、何も言葉をかけてくれなかったといって見捨てられるかもしれない。
子守唄のことに気づいたのは、本当にただの思いつき、それこそ直感のようなものだった。実際、どうとでも解釈できる。特にあのクロアのことだ、後で考え直してこじ付けだったと気づくかもしれない。そうしてまたやっぱり救えていないのではないかと落ち込むかもしれない。
そのときの精一杯だった。それなのに思い返せば思い返すほど、自分の言動の粗が見える。時間が経てば経つほど、別の方法があったように思う。しかしその別の方法もはっきりとは思いつかない。自分の精一杯はこんなものなのかと、空しく手を見つめる。
それに。
視線を上げた。ソル・マルタのガラスのような通路は、足元を見れば目もくらむような高度にあるとまざまざと知らされる。手すりも何もないので、端によって少しでもつまづけばまっ逆さまに落ちてしまうだろう。
見ただけでも足がすくんで進めない通路を、ルカより数歩先を迷わず突き進む二人がいる。足がすくんで上手く動かなかったが、二人において行かれないように、必死でついていった。
最初にここを通ったときは、世界からの期待を背負い、頼れる仲間と共にいて、何も恐れることはなかった。
二度目にここを通ったときは、メタファリカが成功し仲間たちと歓喜でもみくちゃになりながら、ふと何か思い出したかのように突然走り出したクロアとクローシェを追って、他の仲間たちをその場に置いて思わず駆け出した。二人の突然の行動に、わけもわからず追いかけて、高度に恐れている暇もなかったように思う。
そして三度目の今。二人の決意を前にしても、私には何もない。だから、足がかすかにすくんでいる。
インフェル、声に出さずその名前を呼んだ。
400年前の澪の御子。インフェル・ピラの設計者。偉業を成すあと一歩までつめるが、最後の最後で全てに裏切られて最愛の共を失った哀れな娘。そして、数百年の時を越えて、己を裏切った全てに復讐するため、その歪んだ愛情で世界を昇華させるために立ちはだかった世界の敵。
何度も思い返すが、それ以上の何かが出てこない。
(私は、彼女となんの接点もない。だから、彼女のことをこんなにも知らない)
自然、足元を見ていた視線を、もう一度上げる。変わらず、世界一頼りになる二人の背中が見えた。
自分の手を握り、少女の言葉を泣きながら繰り返していた。自分の腕の中で、押し殺すように泣きながら一人孤独に逝った少女を想っていた。
(私は?)
何を想っている? インフェルという少女に対して、自分はどんな感情を持っている?
そんな薄情な自分が、この二人と共に、ここにいていいのだろうか。
二人の苦痛をやわらげたいのに、少しでも肩の荷をおろして楽になってほしいと心から思うのに、私はその心に共感できていないでいる。
優秀なセラピストは、ダイバーの心理を理解し、共感し、汲み取った上で求めているものを差し出す。
血のにじむような努力の上に習得した自慢の技術こそが、今の私は無力だと告げる。理解は出来る。しかし私は、二人に共感できていない。だから、それを汲み取って求めるものを返すことも出来ない。
そんな自分でいいのだろうか。
二人は、これから始まるメタ・ファリカの歴史にとって、非常に重要な存在になるだろう。私はそれを支えたい。だから努力する。
でも届かない。どうしても届かないのだ。私は二人ではないから、二人の痛みを共感できない。共感できないから、力が及ばない。
彼らは世界にとって、私にとって非常に重要な存在。だから私の全てを持って支えたい。
それなのに、私は二人の全てを知らない。だから支えられない。力になれない。
(そんな私なんかが、この二人の傍にいていいのだろうか)
知らず、握り締めた拳から血がにじんだ。
銀色の扉が、音もなく開かれた。
床に座っていた瞬が機敏に立ち上がって振り返り、そばに立っていたフレリアがそれに遅れてゆるゆると振り返る。
「皆、来てくれたんだ」
常にどこかぼんやりとした眼差しのフレリアが、ふわりと笑う。幼子のように愛らしい顔立ちでどこか神秘的な雰囲気をまとう彼女が、そんな親しみのある表情を見せてくれると、思わず全員ドキリとする。
「どうしたんだ」
打って変わっていつもと変わらぬ淡々とした調子の瞬。フレリアに見惚れていた意識が一気に冷める。それでも警戒されていないだけましかもしれないと、かつて何度か敵対した頃のことを思い返して、クロアは内心苦笑する。
クロアとクローシェは一瞬目配せして、言い出したのはクローシェだった。
「突然の来訪、まずは非礼をお詫びいたします」
「そんな堅苦しい言葉じゃなくていいよ」
クローシェの言い回しが面白かったのか、フレリアはくすくすと笑い出す。その隣の瞬も、特にフレリアの言葉に何も言わずにただ腰を下ろした。
今度はクローシェから見て、クロアの反対側の隣に立つルカに目配せする。視線に気づいたルカは、言葉もなく小さく頷いた。
ゆっくり息を吸って、吐き出し、調子を変える。
「ごめんなさい。少し緊張していたみたいね」
「それでいいよ。少しの間だったけど、皆にはよくしてもらったから、皆にまたあえて嬉しい」
「この前は挨拶もなく押しかけては帰って行ったというのに、今日は随分殊勝な構えだな」
瞬の何気ない言葉に、思わず三人は苦笑する。
そう、あのメタファリカを成功させてその足でやって来たときには、挨拶をする余裕もなく、ただ勢いだけで飛び込んだのだ。ただあの少女と会いたい一心で。
思い出して、ずきりとクローシェの胸が痛んだ。そのときに彼女はもういなかったのだから。
いいえ、今は傷ついている場合ではないのよ。
「今日来たのは、彼女の、インフェルのことを聞きにきたの」
「インフェルちゃんの?」
クローシェの言葉に、軽く目を見開いてフレリアは隣の瞬と顔を見合わせた。
「インフェルちゃんの、何を?」
「それは、その」
何を、だろうか。冷静にあれとあれだけ心がけてきたというのに、案外考えがまとまっていないことに気づいた。
「インフェルの、最後、はどんな様子でした?」
「最後」という言葉に躊躇しながら、少しだけ身を乗り出したクロアが言葉を継いだ。焦ってまごつくクローシェとは対照的に、彼はこんなときでも冷静に目的を忘れない。
真剣というにはどこか威圧的すぎる、いや、追い詰められているような必死な色が見えるクロアを前に、フレリアが少しだけひるんだ。逃げ場を求めるように、脇の瞬に視線を向ける。
それを受けた瞬は、やれやれとでも言いたげにため息をして、一歩前に出た。
「彼女は、己が消えてしまうことをすでに承知していた。まあ、なんといってもインフェル・ピラの設計者だ。その仕様は誰よりも詳しいだろう」
素っ気無い瞬の言葉に、半ば察していた事実を告げられる。やはり、彼女は自分が死ぬことも、あの時点で知っていたのだ。
ならば何故、戦いに勝ったとはいえ、結果的に己を消そうとしている自分たちを黙って見送ったのか。何故「迎えに来る」という不可能な未来に逆上しなかったのだろうか。
「インフェルちゃんのことだからね、多分逃げ出すことも出来たんだと思うの」
言うべきかどうか迷っているという顔で、フレリアは言う。
「アルトネリコとは繋がっていたから、こっちに逃げることも出来た。それに、いくらほとんどがデフラグメントされるとはいえ、メタファリカ創生のための重要な部分まで書き換わるわけじゃないから、インフェル・ピラのどこかに隠れてやり過ごすことも出来たと思う」
「じゃあ、どうして……?」
喉から搾り出すような、かすれたクローシェの問い。フレリアは、静かに頭を横に振る。
「わからない。手段も方法もいくらでもあったと思うし、インフェルちゃんだって本物のメタファリカを見たかったと思うよ。インフェルちゃんだって生きていたかったと思う」
「そう、だよな」
「生きていたかった」というフレリアの言葉に、クロアはうつむいてそこにいない誰かに向かって呟く。その顔はまったくの無表情だったが、まるで泣いているような声だとルカは感じた。
沈黙が降りる。
重苦しい空気の中、ルカがふと視線をおろすと、そこから足元からメタファリカが見えた。
新緑の大地は、その地に立っていると広大な大陸に思えたが、天上からはまるで雲海に漂う小さな木屑のようだ。
彼女は、ここからこの生まれたての大地を見て、どう思ったんだろうか。どう感じたんだろうか。数百年にわたる恐ろしいまでの執念の計画を破綻させられて生まれたのが、こんな小さな小さな土の塊だったのかと嘆いたのか。悲しんだのか。やはりサブリメイションを行うべきだったと、消えゆく意識の中で世界を呪ったのだろうか。
彼女には歌は聞こえただろうか。彼女もかつて口にしたという、あの歌を。
瞬間、電撃が走った。
(ああ、そうだ)
「ねえ、フレリア様」
「ん?」
アルシエル球の間に入ってから、これまで一言もしゃべっていなかったルカが、勢いよく声を出す。
「インフェルさん、最後になんて言っていましたか……?」
ルカの大胆な言葉に驚いて、クロアとクローシェが同時に彼女の顔を見た。二人の顔にははっきりとした戸惑いと少しの恐怖が浮かんでいる。一番聞きたい事をどうしても切り出す勇気がなかったと、その顔に書いてある。
大丈夫、とそんな二人にかすかに微笑んで返した。そんな返しは予想外だったのか、二人とも目を丸くする。
「ねえ、教えてくれませんか。インフェルさんは、最後に何か言ってませんでしたか?」
「インフェルちゃんが最後に言っていたこと?」
尋ねられたフレリアは、少しうつむいて、思い出すような仕草をする。
クローシェの顔が、かすかに険しく歪む。ふと、右手からあたたかな感触がした。隣に立つルカの手が伸びてきて、クローシェの手を握っていた。反射的にそちらを向くと、ルカが「大丈夫」と声に出さずに微笑み返す。
何を? と返す前に、フレリアの言葉がそれをさえぎった。
「やるじゃない、って」
「え?」
クロアとクローシェがそろって顔を上げる。
「やるじゃない、設計者を越えるなんて、って」
ええと、と少し口ごもってさらに続ける。
「この世界を、よろしくねって」
ルカの手にあたたかな痛みが走る。
呆然と立ち尽くすクローシェの手が、知ってか知らずか強く握られていた。
「インフェルちゃん、笑いながらそう言って、消えたの」
今度も、言葉はなかった。いや、いらなかった。
ただ、クロアの口から、ああ、と小さな息が漏れた。
新緑の大地メタファリカは、今日もやわらかに降り注ぐ日差しを受けて、その緑を輝かせている。
ソル・マルタからの帰り道、せっかくだからと三人は少しだけ、この愛しき大地を散策することにした。塔を上るために無理やり空けた時間は、もう少しだけ余裕がある。これが終われば、ただでさえ詰め込まれたスケジュールを更に圧縮させて、いっそ歪になってしまっている予定をこなすことになるだろう。
だから、そのための英気を養うためにも、この大地の優しさに包まれていたいと、クローシェは二人にそういった。
鐘撞き堂から少し離れた木陰に陣取ると、甘えたがりな妹の顔になったクローシェが、ルカの膝枕をねだった。先ほどまでの息を詰めた様子から一転しているそんな姿を見て、ルカはよかったと胸をなでおろす。再び塔に上ったことで、妹の様子は好転してくれたようだった。
ちょっとだけだよ、とルカは釘を刺しておいて、内心その甘えを嬉しく思いながらその膝をかした。それを見て、クロアは何も言わず、見張りだといわんばかりに二人とは反対側の木陰に隠れるように立っている。
そよそよと微かに湿った涼しい風が流れる。よく日に当たった草と土は、やわらかに温かい。ルカに膝枕してもらったクローシェは、腕を大きく広げて雲ひとつない空を仰ぎ見た。
「ああ、本当にいい天気」
そんな当たり前のことでも心から嬉しそうにもらす妹の姿に、ルカは優しくその髪を撫でる。
「うん、そうだね」
空気の味を楽しむかのように、クローシェは大きく吸い込み、そして吐き出す。
「なんだか、さっきまでとは天気が違っているように思えるわ」
「そうかな? 今日は朝からよく晴れていたよ」
うん、とクローシェは同意しながら、そうね、と続けて少しだけ憂いのある笑顔を浮かべる。
「確かに、朝からよく晴れていたけど、なんだかもっとさすような日差しだったような気がしてた」
「それはきっと、レイカちゃんの気の持ちようが変わったからだろうね」
「やっぱり、そうなのかしら」
「うんっ。今のレイカちゃん、すごくいい顔してるよ。なんだか、肩の荷が下りたみたいな、そんな清々しい顔してる」
「肩の荷、か。そうね、そうなのかもしれない」
一瞬遠いところを見るような目をして、クローシェはルカの顔を見上げた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
え、ともらして、ルカが固まった。
意外な時に、意外な言葉に、意外な展開に、ルカの思考が止まる。そんな心境を知ってか知らずか、クローシェは言葉を続けた。
「ありがとう、ルカ。あの時、一番聞きたかったことを聞いてくれて」
「ああ、そんなこと」
アルシエル球の間でのことだろう。言葉をなくす二人に代わって、ルカが一番重要な質問をした。
「あれは、二人が聞きたそうにしているのに、全然言う気配がなかったからね」
えへへっ、と照れたように笑う姉の姿に、クローシェは真剣な眼差しで見つめ返す。
「……私、ずっと怖かったの、彼女の最後を知るのが」
自分から言い出したのにね、と苦々しく小さく呟く。
「インフェルの想いを夢を引き継ぐんだって、この大地の上に残すんだって決めたはいいけど、もしその彼女がこの世界を最後まで呪っていたらと思うと、本当に怖くて」
インフェル、という言葉にルカの胸が鈍く痛む。そうだったんだ、と笑って相槌うちながら、心の中ではほのかな罪悪感が芽生えていた。その背後で、かさりと小さく音がした。クロアが、少しだけ身じろぎしたらしい。
「もし、もしも彼女がこの世界のことを嫌っていたら、その意思も挫けるんじゃないかって、ううん、きっと挫けて折れて、胸に突き刺さっていたかもしれない」
世界からの裏切りを受けて最愛の友を失い、その嘆きと怒りを糧に孤独を耐え抜いた彼女が、数百年経った今でもこの世界を恨まないわけがない。いや、恨まずにいられるわけがないのだ。
「たとえそうだとしても、私はインフェル・ピラ設計の意思をついで、このメタファリカを支えるつもりでいたわ。でも、やっぱり、怖かった。ルカが言い出してくれるまで、せっかくまたあんなところまで行ったというのに、今にも逃げ出そうとしていたわ」
「傷つくことを恐れることは変じゃないよ。誰だって、痛いのはいやだもん」
「そうなのかもね。でも、そんな私をお姉ちゃんは、ルカは支えてくれたわ」
だから、
「ありがとう、ルカ」
そんなことないよ、と反射的に呟いた。
本当に、そんなことないんだよ。だって自分は、あなたに共感できていない。共感できない痛みなど、痛くない代わりにとても軽い。そこから生まれた軽い気持ちで、自分はあの質問を口にした。そこから生まれた軽い思いつきで、たぶん大丈夫だろうとあたりをつけた。そんな軽い気持ちから質問をして、その返答を受けてふらつくあなたの手を握っただけ。
だから、全然そんなことない。
再び、背後でかさりと草葉が鳴った。こんな至近距離だ。クロアにもこの会話は全て聞こえている。二人の様子に思うことがあるのかもしれないが、見張りに徹するつもりなのか、彼はそれ以上振り向く気配がなかった。
いっそ振り向いて、もう時間ですよ、とこの場を打ち切ってほしかった。罪悪感は、心を許してくれた妹の笑顔を見るたびに募る。そんな表情を見せてくれて嬉しいはずなのに、その嬉しさが辛い。
クローシェが、再び口を開く。
「ねえ、さっき、何を思いついたの?」
「え?」
「あの質問をしたとき、ルカが何か思いついた顔をしていたような気がするの。何を思いついたの?」
「ああ、それはね」
本当の本当に軽い思いつきだ。なんということではない。
「二人とも、インフェルさんが世界を恨んで消えていったんじゃないかって思っていたんだよね? でも、多分、そうじゃないなって、なんとなく、本当になんとなく思ったの」
「……それは、どうして?」
「うんとね」
目を伏せて、思考をめぐらせる。思考がまとまらず、そのまま言葉になっていた。
「インフェルさんとネネシャさんって、大昔に、メタファリカを二人で歌ったんだよね? あの、世界を創生する歌を。それもインフェルさんは、レイカちゃんと同じ方の歌を」
ルカの散漫な言葉に、クローシェもわけがわからないと膝の上で小さく首をかしげる。
ああ、上手く言葉に出来ない。どう伝えればいいだろうか。この気持ちを、どう伝えればいいだろうか?
気持ちを伝える?
「うん、そっか」
そう小さくもらし、目を瞑り、静かに息を吸った
「明日も 恵み溢れるよう
ささやく 水も木も こんなに優しい
大地よ 祷りよ 嗚呼」
「それは……」
驚いて、クローシェは身体を起こした。
「かけがえのない この世界 両手に抱いて
清き日々を 歩む
ただ あまねく 祝福を 受け止めて
輝く 明日へ――」
自分に直接インストールされた歌ではない。なので、あのときのことを思い出しながら言葉を思い出す。思っていたよりするすると出てきた。
考えてみれば当然かもしれない。だって自分は真剣に歌いながら、誰よりも近くで、そして誰よりも真剣にこの歌に耳を傾けていたのだから。覚えているというのも少し違う。ただ、自分の中の歌と共鳴するこの歌に、心の中で耳を傾けて口ずさむ。
「恵みあれ この愛しき地に 紡がれし 想い湛え――」
「――光あれ この愛しき天 生くるものに」
「「――愛を永久に――」」
二人の声が重なる。
ルカが目を開けると、目の前には涙ぐんだ顔のクローシェがいた。ルカの手を握って、胸に当てる。
「そう、そうね、こんな歌を、彼女もかつては謳ったんだものね」
「うん、私たちは歌を偽れない。それも、こんな大きな歌を偽ることなんでできはしない」
400年前、大地を生み出すその歌を、彼女は一度なりとも謳ったのだ。たとえ結果は失敗に終わったとはいえ、彼女は世界を愛しく想うその歌を、心から謳ったのだ。
失敗の原因はインフェル・ピラの予想外の停止。それはI.P.D.を受け入れるはずだったインフェルの、人として極自然に発生する心の闇を、何千ものI.P.D.らが知られてしまいエネルギー供給を拒絶されたためだ。
決して、歌そのものや、それを紡ぐ彼女に偽りがあったわけでない。彼女は本心から成功を祈っていた。
ただ、ほんの少しだけ、世界のほうに覚悟が足りなかっただけだった。
「だからね、きっと、インフェルさんは心底世界を恨んでないと思ったの。ううん、とても大事に思っていたからこそ、その反動がすごかったのかもしれない」
「……長い間のうちに、大事に思うほうの気持ちがなくなっていた、なんてことは考えなかった?」
ああ、そうか、そういう可能性もあったのか。
軽い思いつきだったとはいえ、こうやって思い返してみるとなかなか的を射た意見だったのではないかとささやかに自信を持っていたのだが、至りもしなかった考えに一度は膨らんだ気持ちもしぼむ。
「あ、ほんとだね。えへへっ、そこまで考えてなかったかも。あーあ、いい考えだと思ったんだけどなあ」
気の抜けた返事に、クローシェは小さく吹き出した。
「お姉ちゃんってば、本当に……でも、その直感の鋭さがお姉ちゃんのいいところだよね」
え、ともらして、また固まった。
意外な時に、意外な言葉に、意外な展開に、ルカの思考が再び止まる。そんな心境をやはり知ってか知らずか、クローシェは言葉を続けた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「さ、さっきも言ったよう、それ」
「何度でも言う。嫌がれても言う。拒絶されても言う。何度言っても言い足りない。
ありがとう。私の傍にいてくれて。私を、支えてくれて」
「わ、わたしは別に何も……そんなこと言わるほどのことじゃないんだよっ? 本当に、ただの思いつきで――」
「ルカにとってただの思いつきでも、私には救いなの。それは私を支えてくれる」
救い、支え。
思いもよらない言葉に息が詰まる。
ルカの手を握り締めながら、その向こうにクローシェの力強く大きな瞳が見える。嘘やお世辞とは思えなかった。
「ルカがいてくれるから、私は立っていられるの。ルカがいてくれるから、私は大きな声を出せる。ルカがいてくれるから、私は恐れない」
クローシェの真摯な言葉が胸に刺さり、広がり、己の内側で満ちていくのが分かる。
それなのに、思いつくのは否定の言葉だった。
「そんなことないっ。だって私、いつもクローシェ様の横に立っているだけで、何もしてない、何も言ってない、何も、できていない」
「そんなことはないわ。あなたは常に傍にいて、私を見ていてくれているじゃない。私が迷ったとき、挫けそうになったとき、一番に気づいてくれる。そして、私に言葉をかけてくれる」
「それだけだよ!」
「それが一番嬉しいの、助かるの、安心するの」
ついにルカは言葉をなくしてうなだれる。それでも、クローシェはまだまだ口を止めない。
「ありがとう、ルカ。ありがとう、お姉ちゃん。あなたが傍にいてくれて、私はこんなにも幸せ」
だから。
ルカの手をそっと離して、クローシェは立ち上がった。二人に背を向けて、木陰を抜けて、日の光を全身に浴びながら、眩しいほどの笑顔を浮かべて振り返る。
「私は、宣言するわ。このメタファリカに、本当の理想国家を築くと。」
「それは歴史にある、過去の亡霊ではないの。惨めさを際立てるような飾りではない、本当の、本物の理想郷よ」
理想郷メタファリカ。それは信仰であり人々の支えであり、同時に、はるか昔に実在したという都市の名前を指す。そこでは全ての人が文化的な生活をし、誰も不幸になることがない素晴らしい制度が整い、誰もが笑顔で暮らしていたという。
その子孫であるメタ・ファルスの民は、己の先祖が築いたかつての栄光を、ささやかな誇りとして長いときを生きてきた。
「大地を生み出しただけでは、国は、人々の生活は変わらない。一時変わったとしても最初の興奮が過ぎてしまえば、きっとまた現実の穴が見えてくるでしょう」
人は欲深い生き物だ。あれだけ欲しがっていたものでも、いじくり回して遊んだ挙句、そのうち飽きて見放し、また新しい刺激を求めだす。欲の、業の深い生き物なのだ。
クローシェが遠く、空を見つめる。まるで、そこには理想郷が本当に見えているかのように、力強い眼差しで。
「だから、現実に疲れてうつむいてしまったときに、少しでもまた希望が持てるような国を作るのよ」
それはつまり、皆が喜び浮かれているときに、己は身を削ってまで国に、民衆に奉仕しつくすことと同意だ。己を厳しく律し、時に己を縛り付けて、この国にその身を捧げることになる。
どれだけの苦難があるだろう。どれだけの苦境があるだろう。どれだけの苦痛があるだろう。どれだけ苦しいのか、今までの経験をもってしてでもはかり切れない。
「私はこの世界が好き。この世界の人が好き。そんな私が好き」
そんなささやかで単純で、それ故に何よりも絶大な想いだけを胸に、彼女はその道を選ぶ。
たったそれだけの気持ちを抱いて、果てしないその道を、力強く歩むのだ。
クローシェの髪飾りが、日の光を受けて眩しく輝く。思わず、ルカはその眩しさに目を細めた。
眩しい。彼女が眩しい。日の光より眩しい。
最も尊き命。彼女はそう呼ばれていた。
それはきっと血筋のためではない。彼女の持つ気高さと、崇高なる理想と夢が、自然と彼女をそう呼ばせるのだ。
そうだ、彼女は美しい。彼女の意思は美しい。彼女の理想が美しい。それは誰よりも真っ直ぐで輝くほどに美しい。
目の前に、すっと手が差し出される。クローシェの白い手が、なんのてらいもなく差し出された。
「ねえ、ルカ。私の傍にいて。私を助けて。私を支えて。
私が足がすくんでしまったときには、背中を支えて。私が立ち止まってしまったときには、声をかけて。私が道をたがえようとしたときには、私のこの手を引いて。
私は、ルカがいてくれるだけで、どんな道でも力強く歩いていけるのよ」
そんな彼女が自分を求めている。傍にいてほしいと言ってくれている。傍にいるだけで彼女は安心できるという。何よりも甘い言葉。それを受けた自分は、誰よりも幸せだ。
でも、と思いとどまる。どれだけその手に惹かれていても、最後の一歩で引き止める。
自分の矮小さは誰よりも知っている。些細なことでも満足に出来ず、人に手間と迷惑をかけてばかりで、そのくせ習得も遅く、何度も失敗を繰り返しながら、わずかな成功でさえ人を十分に満足させるにはまだ足りない。
そんな自分があなたの傍にいていいのだろうか。あなたの美しさを穢さないだろうか。あなたのその純白の理想を、汚い色で染めてしまわないだろうか。
それが怖い。私なんかでいいはずがない。私なんかがあなたの傍にいてはいけない。
そんな思いが、手に枷となって地面に縛り付ける。
できない。私にはその手を取る資格はない。
「クローシェ様」
それまで黙って立ているだけだったクロアが、二人のそばまで来ていた。
見ると、クローシェのかたわらで、クロアが膝をついて頭をたれていた。ひざまずいて、言葉を紡ぐ。
「僭越ながらこのクロア・バーテル、貴女の何よりも気高きその意思、理想の一助となるよう、御身を護る盾として、そして御身自身の矛として振舞うことを、どうかその許しを請いたく願います」
言葉そのものよりもまず、その真摯な気持ちが伝わってくる。低く、普段は抑揚の少ない声には、顔を見なくても分かるほどに熱い気持ちがこもっていた。いつも涼しげな目で何事もこなしてように見える普段の彼からは、到底結びつかないほどの熱量を、気持ちを、心を感じる。
クロアの突然の、しかし何よりも真剣な言葉と態度に、クローシェはルカに伸ばしていた手を引いて、クロアの頭の上にかざした。
「ありがとう、騎士よ。その願い、私は嬉しく思います。どうか、私を護りその矛となってください」
「ありがたく存じます。この身果てるまで、貴女に仕えることを誓います」
「その言葉、決してたがえぬように。それに」
クローシェは顔を上げてルカを見た。一瞬、その眼差しに、座ったまま身をすくませてしまう。
「私の半身、私の最も愛しい彼女にも、どうかその誓いを」
「わ、私!?」
突然の言葉に、ルカの声が裏返った。その様子を見てにこりと笑って、クローシェが言葉遣いを崩す。
「ええ、そうよ。あなたはこれからずっと私と共にいる。私の半身になるの。あなたは私、私はあなた。あなたがいなければ私は成り立たない。だから、私を護る騎士は、同時にあなたにも誓いを立てる」
「そ、そんなの知らない知らない! 私はいいよ。私は、クロアにそんな誓ってもらうほどのものじゃない。クローシェ様だけを護ってあげて」
「あら、そんなことは無理ね。だって、ルカが涙すれば私は怒るし、ルカが傷つけば私の心も傷つくし、ルカが死んでしまったりすればきっと私の心も一緒に死ぬわ。だから、私を護ることはルカを護ることと同意よ」
さらりと殺し文句を叩く姿に、また少しクラリとしながら、それでも理性で踏みとどまる。
「違う違う! 私はそんなんじゃない! 私はクローシェ様みたいにきれいじゃない! 私は、私は……」
自分の矮小さは、そして無力さは誰よりも知っている。理想もない、夢もない、ただその日をどうにかすごすことだけ考えて生きたきた。
何をやっても後悔と反省と自己嫌悪しか生まれない。そんな行動しか出来ない。自分の精一杯の行動は、いつだって望む場所に手が届かない。
今だってそうだ。日々の忙しさを捌くことだけ考えて生きている。それさえ上手く出来ずに歯がゆく思う。クローシェのように、膨大な現実の果てに、美しき理想を見ることなど到底無理だ。
ただ、上手に今日をこなすことだけを考えて生きてきた自分に、はるか道の先を見据えるクローシェの傍になんていられない。その盾となるクロアの加護にあやかる資格もない。
「私は、私は……二人の傍にいられるほど、力のある人間じゃないの」
ようやく、本当の自分が、言葉となって生まれ出でる。
「俺は、知っている」
突然の言葉に驚いて顔を上げると、自分の前で膝をついて顔を覗き込んでいるクロアの顔が見た。先ほどまでの熱はどこかに身を隠し、代わりにいつもの冷静で涼しげな瞳をしていた。
「俺は知っている。ルカが、貴重な休憩時間を削ってまで、何度も何度も資料を見直していることを」
低く、淡々とした声だった。でも恐ろしくはない。素っ気無いとも感じない。あるがままの事実を、当たり前のように告げる。そんなさりげない声だ。
「ルカがクローシェ様のことをよく見ていて、誰も気づかないような変化の度に声をかけていることを知っている」
連日のすさまじいスケジュールの果てに、クローシェは熱を出しているにも関わらず、それを化粧と表情で誤魔化していることに気づいて、あわててその日の予定をキャンセルさせた。その代わりとばかりに自分が出席して、倍になった仕事を泣き言をもらす暇さえなくこなした。
「ルカが発言してくれたおかげで、話し合いがうまく進んだことも知っている」
いつかの会議で、クローシェと他の陣営との意見が衝突し、著しく会議が滞ったときがあった。ぴりぴりしているクローシェに、脇で自分なりに真剣に考えて気づいたことを二つ三つ進言した。その言葉を受けてクローシェは何かひらめいたのか、次の発言から驚くほどに話が進み、その後もきれいに話がまとまったのだ。
「ルカがいつも皆に気を配ってくれて、そのおかげで式典が上手くいったことも知っている」
主要な役職の人物らは、メタファリカの創生以降連日の式典や儀式のおかげで、誰も彼もがつかれきっている。そんな彼らにさりげなく声をかけて励ました。クローシェと同じく彼らだって疲れているだろうから、少しでもその励みになるようにと、できるだけ笑顔で接していた。
「ルカがクローシェ様の演説の前に挨拶してくれるおかげで、皆がその後の話を真剣に聞いてくれていることを知っている」
難しい内容に思えても、それはクローシェなりに噛み砕いてまとめた内容だった。最初から構えずに接してくれれば、きっと皆も理解してくれると思って、率先して挨拶して、まずは緊張した空気を和らげようとした。
「ルカが、様子のおかしなクローシェ様を見て励まそうとして、夜遅くにまで押しかけたことを知っている」
一人で思い悩んでいるようだった。一人で思いつめている様だった。それはいけないと思った。だからどうにかしたいと思った。それだけだった。
「俺は全部知ってる。ルカの傍で、全部見てきたから知っている。ルカの努力と気配りのおかげで、クローシェ様が助かっているのを知っている。ルカのおかげで、クローシェ様の行動は全部上手くいくんだ」
「ええ、私も知っているわ。ルカのおかげで、今の私がここにあると」
だから、と二人は声をそろえた。
私は上手にあなたの役に立っていますか。
私は上手にあなたの力になっていますか。
私は上手にあなたの支えになっていますか。
いつだって自信がなかった。
いつだって力が足りないと思っていた。
いつだって頼りにされていないと思っていた。
「ルカはクローシェ様の支えだ。間違えようもない。俺がそれを知っている」
「そうよ、あなたは私の支えなの。だからどうか、この手を取って」
もう一度、クローシェの手が差し出された。
その白い輪郭が、歪んで見える。
それでも役に立ちたかった。
それでも力になりたかった。
それでも支えになりたかった。
二人のそばにずっといたいと思っていた。
二人の隣で歩きながらその道の先を見てみたかった。
二人と共にありたいと望んでいた。
ずっと、そう思っていたの。
指の長いきれいなその手に、おずおずと伸びた小さな手が、重ねられた。