Infel side.CHROAH

「子守唄、歌ってあげたのか?」
 クローシェの寝室から出てきたルカに、声を潜めてそう尋ねた。
「あ、聞こえちゃった? うんそう、3秒後には寝ますー! って顔しているのに、歌ってくれないと寝ないって駄々こねられちゃって」
 ルカは小さく舌を出して、これは秘密ね、と呟いた。確かに、子守唄をねだっているクローシェ様の姿を知れば、普段の凛々しい姿しか知らない街の人々は度肝を抜かれるだろう。それはそれで別の支持を受けそうなものではあるが。
 なんとなく、そういう方向で絶大なる支持を受けては戸惑っているクローシェの姿を思い浮かべて、二人ともにやりと笑ってしまっていた。
「もう落ち着いていたし、元々疲れていたのかな。よく眠ってる」
「そうか。きっとルカの歌がよかったんだな」
 クロアとしては何の気なしにいったつもりだったのだが、ルカは一瞬で耳まで赤くなる。勢いクロアの顔を見上げたが、言葉の受け取られ方をよくわかっていないのか、本人は曖昧に笑って疑問符を浮かべている。
 その足を思い切り踏んづけてやった。もちろんヒールで。
「っい――」
「しーっ」
 叫ぼうとしていたクロアの唇に、ルカが人差し指を押し当てて黙らせる。うっすら涙を浮かべているクロアに、意地悪く微笑みかけた。呆気にとられる顔を見て、ルカはこらえきれず小さく吹き出した。
「部屋の前に立っていたクロア、今にも倒れそうな顔をしてたよ。騎士たるもの、お姫様の前で不安そうな顔を見せちゃだめなんだから」
「ルカこそ、愛しい妹が心配じゃないのか?」
「んー、ちょっとびっくりしたけど、あんな健やかな寝顔を見せられたら不安も吹き飛んじゃうよね」
 なんならクロアも見てみる? とドアノブに手をかけたルカに、降参とばかりに両手を挙げる。よろしい、満足げに頷いて、ルカは自室へと歩を向けた。クロアも自然と同じ方向に歩みを進めた。

暗い廊下。この辺りはもともと教皇家一族の寝室ばかりで、今はほとんど使用されていない空き部屋が多い。焔の御子であるルカの寝室はその奥だ。
「ね、クロアはインフェルさんのこと、どう思ってた」
「……それって」
「あ、そういう意味じゃないよっ。もう、それくらい察してよ!」
「わかってる」
 そういわれてルカはからかわれたことに気づいて、頬を膨らませてそっぽ向いてしまった。それでも言葉を待っているとわかったのでクロアは慎重に言葉を選ぶ。
「いいやつだったよ。本当に」
「そっか」
「ああ。悲しいことばかりでひねくれてしまったんだろうけど、でも、芯まで曲がっていなかったと思う。むしろ、そこまで曲がりきっていなかったからこそ、あんなに辛い顔をしていたのかな」

『いやっ、聴きたくない!』

 まだ一年も経っていないというのに、まるで大昔の出来事のようだと感じている自分がいる。それでもあの時の彼女の声と表情は、きっと死ぬまで忘れられない。
 驚愕の事実を突きつけられ、そして流れるままに死闘を繰り広げた。戦いの果てに立っていたのは自分たち。なのに消えた親友を前に取り乱す彼女の姿を前に、勝利の余韻などには浸っていられなかった。
「わかっていたんだと思う。こんなことしても、どうにもならないんだって。わかっていたけど、だからってやめることが出来る人間じゃなかったんだ」
「……そっか」
 その先の言葉はなかった。薄暗い廊下をゆっくり歩きながら、クロアが言葉を探しているのがわかっていたから、ルカも特に何も言わなかった。
 最後の角に差し掛かったところ――この先はもうルカの寝室しかない――で、クロアがようやく言葉を見つける。
「……どうして、こんなことになったんだろうな」
 『こんなこと』がどういうものか、言葉にしなくてもルカには通じている。そう確信している目だった。
 数百年の孤独の中、妄執とも言える狂気の果てに、少女は計画の機会をうかがっていた。たった一人の親友の復活を祈って、孤独を救ってくれる愛を求めて、彼女は永遠ともいえる孤独に身を投じたのだ。
 ようやく取り戻した愛の代わりに、孤独の中で培った狂気は世界に牙を向いた。だから倒した。
 それで終わりにするつもりなんてなかった。世界の敵であったとはいえ、孤独な少女を見捨てることなんて出来なかった。それに、狂気に染められていたとはいえ、その行動は彼女なりに世界の救済を祈ってのことだったから、きっと分かり合えると思った。救えると思った。
 そうだ、救えると思っていたんだ。
「なあ、ルカ」
 知らず、喉に力が入る。まるで鉄の塊でも吐き出すかのような感覚が、喉の奥でうずく。
「ん」
 ルカからの返事が来た。もう言わなくてはいけない。
 言いたくない。でももう言葉は喉までせり上がっている。言わずにいられるなら言わない方がいい。でも、もう無理だ。
 喉の奥がうずく。もうこれは痛みだ。吐息が、ひどく重く熱くごつごつした何かに思える。
「俺は、結局、誰も救えなかったんだな」
 ようやく喉から現れたその言葉は、歪んだ笑顔と共にごとりと落ちた。

 メタファリカをつむいだのは二人の御子だ。二人が身を削るような壮絶な体験をしてつむいだのだ。
 それに比べて、自分は何をしただろう。I.P.D被害から皆を護りたい一心で入った大鐘堂は、その実I.P.Dを生み出していた。
 紡いでくれといったメタファリカは未完成で、それゆえに周囲を傷つけた。
 『神の意思こそこの世界を救う!』 そう信じていた親友は、血族の制約に縛られて苦しんでいたのに気づかなかった。
 『私たちI.P.Dは何のために生まれたのかな』 泣きながらそう呟いた妹分を、己の手で傷つけて犠牲にした。
 『迎えに行く』と約束した青い髪の孤独な少女は、一人静かにこの世を去っていた。
「俺は、本当に、何も救えなかったんだな。インフェルを、この世界に戻してやれなかったんだ」
 かつて自分を救ってくれた少女が目の前いる。焼け落ちたガレキの中、何の先も見出せない灰色の世界で、つぼみから花開くような笑顔で手を差し伸べてくれた少女。彼女のような人になりたいと思っていたのに、その人の前で情けない泣き言を漏らす。我ながら全てが最低だと心底自覚していた。痛感していた。
 自分の少し前を歩いていた少女は、くるりと振り返る。思わず目を逸らしていた。
 ルカが一歩踏み込んできた。身を引くことは出来ないのに、目を瞑る自分を止められない。ここまで来ておいてこの情けなさに吐き気がする。
 衝撃は、軽く、温かいものだった。ふわりと良い香りが鼻腔をくすぐる。
 驚いて目を開けると、ルカが自分の胸に顔をうずめてうつむいている。深く息を吐いた動作が服を通して感じられる。
「どうしてそういうこと、言っちゃうかなあ」
 くぐもった声で、泣いているのか怒っているのかよくわからない。
「……ルカ?」
「私は」
 ルカが顔を上げる。怒っているようだった。でも、怒り方が予想と少しずれていた。
「私はクロアに助けられたよ。救われたと思ってるよ」
 真っ直ぐな目で、静かに、しかし威圧するような気迫がこもる。
「どうしてそういうこと言うの、どうしてそういうこと言えちゃうの。クロアは本当に他人のことなんだかどうでもいいんだよね」
「っ、そんな言い方――」
「本当のこと。自分が関わってきた人間全部、どこかで切り捨てちゃってるよね。その切り捨てた中にクロアに救われた人だってたくさんいるかもしれないのに」
 早口でまくし立て、視線を一瞬たりとも離さずに、むしろ軽く胸倉を掴んでこちらが身を引こうにも離そうとしてくれない。
「私も、レイカちゃんも、ココナちゃんも、タルガーナさんも、きっとインフェルさんだって、クロアに救われてると思う」
 どうしてか、この言葉に喉が渇く。上手く言葉が、声が出てこない。
 違う、と否定したいのか、そうなのか、ともらして安心したいのか、自分でもわからない。でもきっと、何を言ってもこの少女は怒る気がした。
「なんでそうなのかな。救った端から切り捨てて、見向きもしないよね。私たち、そんなにクロアにとってお荷物? 邪魔? 用済み?」
 さすがにその言葉にはカッとなって返す。全力で言い返す。
「そんなことあるわけない!」
「見てもないからそんなこと言えるんだよね、クロアは」
 そこまで言い捨てて、再び胸に顔をうずめる。言いたいことを言い切ったのか、ルカは再び長く息を吐いたようだ。
「ル――」
 その細い肩に手を置こうとした瞬間、右耳が燃えた。
「っい――」
「しーっ」
 そういって、開いた右手の人差し指でクロアの口をふさぐ。あまりの展開の速さに、とっさに耳を押さえただけで、あとは言葉もなく目を白黒させる。
 泣いていると思わしきルカは、あっという間に手を離し、何の情け容赦もなくそれこそ千切る勢いでクロアの耳をつねりあげたのだ。しかも涙の痕跡がない。
「な、」
 いまだ言葉にならないクロアを前に、思いっきり舌を出す。
「クロアはもうちょっと自分を大事にした方がいいと思うよ。私も大概だけど、クロアはもっとひどい」
「何のこと」
「あなたに救われた人はいます。少なくともここに一人います。あなたは誰かを救える人」
 舌をしまったと思うと、今度は至極真面目な言葉で返された。もう何がなんだか分からない。
 ますます混乱して、いつの間にか壁に寄りかかっていることに気づく。もう一度踏み込んできたルカに、本気でびくりと身をすくませてしまった。
「それに、インフェルさんの存在はまだこの世界に残ってる」
 えっ、と聞き返す間もなく、ルカは言葉を続ける。
「私ね、さっきお母さんの子守唄を歌っていて気づいたの」
 すうと息を吸い込んで、目を閉じ、両手を前で結んだ。ルカの歌い始めるときによくする姿勢だ。
 クロアも最近よく耳にする機会が増えた暖かなメロディがつむがれる。詩魔法ではない。純粋な、ただの歌。
「――ねんねころりや 夜空の月よ いずこへ行く――」
 寝室が並ぶ一角に、この時間帯にふさわしいメロディが響く。その旋律は誰の耳にも優しく響き、柔らかく、温かく包む。
「Was yea ra sonwe infel en yor」
 子守唄に唯一使われているヒュムノス語。
 あれ、と思った。レーヴァテイルでないクロアには職務上必要なヒュムノス知識こそあれど、一度聴いただけで意訳できるほどのスキルはない。それでも何度も聴いたメロディと、そして聞き覚えのある単語が混じっていればさすがに気づく。
「sonwe infel……」
 もう一度、ヒュムノス部分を頭の中で組み立てる。反芻する。
「この詩ね、ずうっと昔から、焔と澪の御子に語り継がれている詩なんだって」
 だからね、とルカがクロアの頬を優しく両手で包んで、二人は真っ直ぐに見つめ合った。
「ずっといい名前だなって思ってたんだ、インフェルって名前」
「……そう、だな」
「うん」
 どんな顔をしていたんだろう。ルカの腕がするりと伸びてきて、クロアをその胸に抱きかかえる。
「考えたら当然かもね。歴史から消されたっていっても、インフェルさんの残した歌や機械って、今でも私たちのそばにある。あのメタファリカ自体が、そう、レイカちゃんの言っていた通り、インフェルさんの夢の結晶なんだよね」
「……ああ」
 彼女が優しく抱え込んだ肩が、かすかに震える。
「クロア一人が背負い込むことじゃないよ……みんないるよ、レイカちゃんもいるし、私もいる」
 だからね、
「涙を隠さないで。一人で罪を背負って罰を待たないで。あなたのことを知っているみんなが、私が、許すから」
 返事はなかった代わりに、ルカの背中に回された腕に、強く、力が込められた。

――空に浮かびし 月を眺めて
   独り静

――絆深めて 契り交わして
   過ぎ去りし日よ

――出会いを偲び 現を忘るる
   ただ寂しや

――懐かしき声 月は囁く
   我が身 振るわす

――唄う二声は 風となり
   空を永久に舞えや
   どこまでも

Was yea ra sonwe infel en yor
            (インフェルが貴方のために歌います)

「聆紗の子守唄」より

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