Infel side.CHROCHE
「インフェル!」
鏡面のような床の上を駆けながら、クロアはその名前を読んだ。
アルシエル球の間の床はガラスのように透けており、しかしどれだけ騒がしく踏みしめようともきしみもしない不思議な材質で出来ている。その床の向こうには雲海に覆われて、わずかに地平線が丸く歪んで見える惑星アルシエルと、その圧倒的な雲海の上にぽつんと茶色いメタファリカの大陸が見えている。
そう、その今にも圧倒的な雲海に飲み込まれそうな小さな大陸は創世された。多くの人の祈りと想いをこめて、数百年にわたるメタ・ファルスの民の願いを受けて、400年前に一人の少女が中心となって設計した計画が実を結び、その大陸は創世されたのだ。
「見たか? メタファリカが成功したんだ! ここからでも大地は見えただろう? 歌は聞こえたか?」
珍しく興奮したクロアの声色が神の間に響く。
返事はない。青の少女の姿はどこにも見えなかった。
「インフェルっ」
もう一度読んでみた。あの気難しい少女のことだ。呼ばれていることに気づいていながら、どこかに隠れてからかっているのかもしれない。
「インフェル!」
もう一度呼んだ。
今度は奥の間の扉が開いた。怪訝な顔になっていたクロアは、ぱっと表情を明るくする。
「……いないよ」
幼い少女の声がした。
しかし、少女ではあったが標準より少し低めで理知的な響きがあったインフェルの声ではない。それは幼く、柔らかな、高い声。
扉の奥からは、透明な羽を持ち、幼い頃に読んだ絵本に出てきた「妖精」を思い起こさせる少女、フレリアが出てきた。その隣には、彼女の護衛であるシュンがいる。
「フレリア様……いないって、インフェルが? あいつ、どこかに移動したんですか?」
フレリアは少しだけうつむいて、隣のシュンと顔を合わせる。いつも済ました顔のシュンは今もって何も変化がないが、いつも穏やかに微笑んでいるフレリアの表情は暗い。
「彼女は、」
「いいよ、エンジャ……私が言う」
彼女の代わりに口を開いたシュンの台詞をさえぎって、フレリアは決意を込めた目で顔を上げた。
妖精のような少女はいなかった。代わりに、アルトネリコ第二塔の管理者オリジンであるフレリア神がそこにいた。
「インフェルちゃんはもういない。この塔にも、この惑星のどこにもいないの」
「どう、いうことですか」
クロアの声ではなかった。棒立ちする彼の隣から、豪奢な金髪が流れてゆれる。彼に遅れてこの間にやってきた御子クローシェが、彼を超えて一歩前に歩み出た。
彼女の凛々しい眉根が険しくなる。それを見て、フレリアは一瞬だけ目を伏せて、もう一度口を開いた。
「インフェルピラは、本来の使用目的であるメタファリカ創世時には、その内部を全てデフラグされるの。それはインフェルピラのエネルギーを、大陸に変換するために必須の行程で」
「インフェルピラ内部にある大陸創世時に必要でない機構やデータは、大陸創世時には全て削除される。そして、あの少女の人格データはその異分子そのものだ」
「エンジャ……」
「はっきり言わないとかえって混乱させるだけさ」
だから、と顔色一つ変えないでシュンは言葉を続けた。
「あの少女であったものは、もうこの世のどこにもない」
呆然と立ち尽くす二人の背後で、床を蹴る音がした。逸る二人にようやく追いついたルカが、ただならぬ雰囲気に驚いて、扉をくぐってすぐに立ち止まる。
だから、何の障害も邪魔もなく、シュンの淡々とした声がアルシエル球の間によく響いた。
「あの少女はもう死んだ、と言うのかもな」
誰も、何も、その言葉に反応しなかった。だから、痛いほどの無音がその場を支配する。
声もなく、クロアはぎこちなくうつむいて足元を見た。驚くほどの透明度を誇る不思議な材質の床の向こう、はるか遠い雲海の上には、メタファルスの民の悲願であった新緑の大地が見えた。
「あんた馬っ鹿じゃない!?」
常に理性的であろうとした彼女は、とてもじゃないが理性的に聞こえない声で、こんなちっとも理性的でない言葉を叫んでいた。
その声は、今も頭の中で再生されるほどに鮮明だ。
クローシェは、軽く右の拳を握り、左腕を静かに前に突き出した。あの時と同じように。
頭上にはリムを囲う巨大な輪の形をした3本の柱――本来の役割を全うしていた頃につけられた「ドラフターリング」という正式名称はこの時代にはほとんど失われていた――と、その向こうには満点の星空が見え、足元には若葉が生い茂る。ゆるやかに続く下り坂の向こうには、星空に照らされてぼんやりと大地が見える。
誰もない。
ここは鐘撞き堂。ごく最近まで封印されていたこの場所は静謐な空気を称え、それでいて見上げれば満天が広がっている。月もない夜。見上げれば、空を貫く天空への塔のそばには黒々とした巨大な影、あの緑の大地が静かに浮遊している。
大陸が創世されたからといって、すぐに移住が始まるわけではない。先遣隊が調査と測量を行い、人口に見合った居住地と農地の割合をはかって、その上でようやく移住が始まる。現在、大陸への立ち入りは極々一部の人間を除いて禁じられ、生まれたばかりのこんもりとした小山がそのまま残っていた。
恋焦がれた理想郷。
すうと息を吸って、目を閉じた。
日が昇れば今は黒々とした塊でしかないそれは、緑と土で覆われた大陸の姿を見せるだろう。貧しい大地で生まれ育った、メタ・ファルスの民が望んだ新緑の大地だ。
頭の中に、音が生まれ、詩が広がる。
風が頬を撫でた。土の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。
「vEsEk sarr, arhou, nafa, infel...」
流れてくる、温かさ、希望、優しさ、愛。
胸の奥にやわやわと広がる重みを思い出す。そしてそれは次第に大きくなり、集まりだし、渦となり、己の身の内で蠢く。
「fEwErYEneh yor, herr en harr, mea, infel...」
包まれる、貴方に、みんなに、私に、愛に。
小波のような小さな渦は、あっという間に大渦となる。身の内側から骨を砕き、肉を突き破る勢いで大きくなる。
願いが、喜びが、欲望が、期待が、希望が、不安が、叫びが、祈りが、全ての感情が、私のものではない、あまりにも圧倒的な感情が、暴れ狂う。
耐えられない。破裂する。侵される。食い破られる。私が壊れる!
「あんた馬っ鹿じゃない!?」
ザアッと、ひときわ強い風が吹き抜けた。はっと目を開く。
反射的に肩を抱いた。暑くもないのに、いつの間にか汗をかいている。ブルリと身を震わせた。
「……覚えてる」
もう一度目を閉じる。あの声を、もう一度思い出すのだ。
「覚えてるよ、インフェル」
怯えて心を閉じた自分、その結果愛しい姉を殺しかけた自分、悲願であった大陸の創世を失敗にさせかけた自分を容赦なく叱咤する声。天上の間では憎らしいほどの余裕の表情を浮かべていた彼女が、みっともなく声を荒げて、乱暴にこの肩をゆすった。
もう一度、手に力を込めて肩を抱く。
「覚えてるよ、あなたの言葉、声、」
唇が震える。
「あなたの、想い」
「レイカちゃん」
軽やかな明るい声がした。彼女に対してなんの敵意のないとわかる声。
顔を上げると、入り口の柱の前にルカとすでに寝巻きに着替えているクロアが並んで立っていた。ルカがひらひらと片手を振って、クロアはいつもの真面目そうな無表情で小さく会釈した。
反射的にクローシェは視線をそらして、軽く咳払いする。もう震えていない。
大きく息を吐いて「御子」の表情になるよう、物心ついた頃から叩き込まれた表情筋を使い方を思い出す。どんな内情であっても決して周囲に悟られないように、御子という仮面をつけるのだ。
「ルカ、クロア、どうしたの? こんな時間に」
改めて振り返ると、二人がすぐそばまで来ていた。
「それはこっちの台詞だよ。何しているのレイカちゃん」
「何って、ちょっと眠れなかったから外の空気でも吸おうと思って……って、ルカ、あの、それはちょっと……」
姉が妹の名を呼ぶ。それはいたって普通の光景だったが、御子でもあるクローシェをその名で呼ぶのは、姉妹二人きりの時だけだ。
特別そんな決まりを作ったわけではないのだが、長年「クローシェ様」と呼ばれなれ、その呼び方に負けないように立ち振る舞う教育を受けてきたクローシェには、たとえクロアの前とはいえ、姉妹以外の誰かがいるときに本名で呼ばれることには抵抗が、いや、少しの恥ずかしさがある。
やんわりとした抗議の声を、気にした風もなくルカはニコニコ笑っている。おかしい、この笑い方は何かおかしい。そうこれは、今となっては姉妹とクロアの間ではなかなか見せなくなった「外出用」の笑顔だ。
そんなルカの様子に気づいたのか、隣に立つクロアもちらちらと横目で二人を見比べている。困っている。ルカと長い付き合いであるクロアがこんな表情をするのだ。今のルカの機嫌は最良とはいえないらしい。
奇妙な間をおいて、意を決してクローシェは口を開く。
「あ、あの、二人とも何か御用かしら?」
にゅっとルカの腕が伸びてクローシェの頬を両手で挟み込み、そのままぐりぐりと両手を回しだした。当然、はさまれたクローシェの顔が愉快なことになる。
「って、おい、ルカ!」
「クロアは黙ってて! このおー!」
さすがに止めに入ったクロアに、ルカは手も止めずに一瞥を食らわせる。一瞬見せた底の知れない視線に、クロアはびくりと身をすくめた。こういうモードに入ったルカをクロアに止められるはずがないのだ。
クローシェもじたばたともがいて身を引くがルカは迷わず踏み込んでくる。離れない。
「ったたたたた! ――何! なんなのルカ!?」
「レイカちゃん、その取り繕った表情をやめなさいー!」
「っ」
息を呑んだクローシェを見て、ようやくルカが手を離した。代わりにクローシェが自分の頬に右手を当てて、恨めしげに姉を睨んだ。
当然です、と言わんばかりの表情で、ルカはぴっと指を立ててクローシェの鼻先に突き出した。
「そんな目をしてもダメだからね。他に誰もいないのに、私たち二人の前でも『御子様』をしようとしたレイカちゃんが悪いんだよ」
「……ごめん。お姉ちゃん、クロア」
そんな姉の言葉に観念して、がっくりと肩を落としてうなだれる。それを見て、勝ち誇るようにルカは腕を組んで頷いた。もう貼り付けたようなルカも外出用の顔はしていない。標準から見れば丸い輪郭の幼顔なのに、どこか艶っぽさのある唇で小さく微笑んでいる。
間に挟まれたクロアが困った顔で二人を見比べる。この御子姉妹のやり取りに入り込むほどの手腕は、彼はまだ持ち合わせていないのだ。
「で、何をしていたのクローシェ様」
ルカからの呼び名が戻っていた。余計な緊張をほぐしたから、これ以上の追い込みは必要ないと思ったのだろう。こういうときの姉は、引き際もよくわかっている。
今日は勝てそうにないかもと苦笑しながら、クローシェは空を仰いだ。
「思い出してたの、彼女のことを」
3人ともすでに鐘撞き堂の段差に腰を下ろしていたが、ルカとクロアもつられて空を見上げる。
満天の星空と、輪の形をした柱、そして鐘撞き堂から伸びる巨大な塔。その先には、昼間に3人でいったソル・マルタがある。
昼間のアルシエル球の間でのやり取りを思い出して、自然、クロアの目が細くなった。
「そう、ですか」
いつもの抑揚の少ない声でつぶやく。ただでさえ感情の見えにくい低めの声色は、今もどんな気持ちで吐き出されたのかわからないし、本人も実のところ良くわかっていなかった。
うん、とクローシェは見上げたまま返す。ルカだけ視線を戻して、膝を抱いて、丘の向こうに見える大地を見つめていた。
「インフェルさん、だっけ。私はあんまり関わりがなかったなあ」
「そりゃ、I.P.Dとそのダイバーでもない限り、彼女と関わることはほとんどないんだろうな」
「クロアはいーっぱいクローシェ様にダイブしたから、インフェルさんのこともよーくご存知なんだよねー?」
「ルカっ」
いつも以上につかめない調子の姉に、思わずクローシェが声を上げた。耳まで真っ赤になった妹の顔を見て、ルカは口元に手を当ててくすくす笑う。
「冗談だよー、冗談。いや、でも、二人でダイブをいっぱいしたのは事実だよね?」
「ク、クロアはルカにもいっぱいダイブしてるじゃない!」
「えーと……、もしかして俺が悪いのか?」
クロアが大きくため息する。それを見て、ルカはこらえきれないという様子で寝転がって笑いだした。ちょうど真ん中に座っていたので、後ろに倒れこんだ彼女を二人が合わせ鏡のようなタイミングで振り返る。その様子を見て、ルカはさらに吹き出している。
「なんかちょっと様子がおかしくない?」
「ええ、俺の部屋にもこのまんまの調子で押しかけてきて……」
ルカの身体を上で、ぼそぼそと相談しあう。顔を突きあわせて話し合う二人に向かって、ルカは両腕を大きく開き、勢いをつけてそのまま二人ともども抱きこむように起き上がる。
ガツッと鈍い音を立てて、抱き込まれた二人の額があまり冗談ではない勢いでぶつかる。クロアにいたっては小さな星が見えた。
「様子がおかしいのは二人のほうー! 二人とも、そろってうじうじしてるじゃない!」
ルカの腕の中で、二人ははっと目を見開いて互いの顔を見上げた。
二人を解放しないまま、今までとは打って変わって柔らかな声色で、その耳元でささやく。
「インフェルさんのこと、考えてたんでしょう?」
何もかもお見通しなルカの前で、バツが悪そうに二人ともうなずいた。
「クローシェ様のコスモスフィアの中で、インフェルとはよくしゃべっていたんです。ずっと心の護だと思っていたから、案内役みたいな感じに思っていて。困ったこととか分からないことがあると、いつも頼ってた。呼ぶとすぐ来るくせに、大抵文句言いながら出てくるんだ」
その様子を思い出したのか、これまで無表情だったクロアの唇がわずかに弧を描く。
「つまらない冗談が好きで、いつも何かあるたびに口にしてた。どれだけつまらないっていっても懲りなくて、そういえば、いつも違う冗談を言ってたな」
何を思い出したのか、目を細めて微笑んだ。
「ああ、それに今思えば、現実世界のことにもすごく詳しくて、特にインフェルピラやメタファリカの歴史のことについてすごく詳しかった。てっきり、クローシェ様の知識から引き出しているのかと思っていたんだけど、分かってみれば、そんなこと知っていて当然のことだったんだな」
インフェルピラの主要設計者であり、初代澪の御子。歴史上最初にメタファリカを歌った御子の一人。歴史に詳しいどころか、その歴史的事件の当事者だったのだから。
「知的好奇心を満足させるためとかなんとかいいながら、なんだかんだと付き合ってくれて、結局、すごく人が良かったんだと思う」
そこまで言ってクロアは空を見上げた。視線の先は、人間の視力では到底捉えきれないはるか向こうにある、アルトネリコの管理施設ソル・マルタ。ただでさえ視力が標準以下だというのに、薄暗い星空の元、それでもメガネの奥で目蓋に力を入れて見据えた。
「神の間でインフェルが出てきたとき、本当に信じられなかった。いざとなったら実力行使しかないと思っていたのに、出てきた相手が見知った顔で、しかもくだらない冗談が好きな人間だなんて。本当に、」
目蓋を閉じる。その裏側に焼きついた何かを見るかのように。
「本当に、驚いた」
自然険しい顔になっていたのだろう。ルカが遠慮がちに尋ねてきた。
「インフェルさんと、どんなお話したのかな」
クロアは二人に視線を戻した。彼なりに微笑みを作って、彼女の言動を思い出す。
「ええと、確か、人の日記を勝手に見たのか! って、すごい顔で叫んでた」
えーっ、と声を上げて姉妹がそろって笑った。
「私のコスモスフィアの中で、本人を差し置いてそんなくだらない喧嘩してたの?」
口元を押さえて笑いながらクローシェが聴いてきた。その言葉に肩をすくめて、苦笑いする。
「喧嘩というか、一方的に俺が怒られたというか。実際に日記を読んでのはジャクリだったんですけどね」
「でもクロアも内容は知ってるんでしょ。じゃあ叱られてもしょうがないよ」
「絶対、とばっちりだ」
心底困った顔をするクロアを見て、姉妹は再び声を上げて笑い出した。
「結局、私が彼女とまともに話できたのって、メタファリカを歌っているときだけだったのね」
「メタファリカを歌って……って、クローシェ様、あんな時にそんなことしてたの!?」
「ええ」
そういってクローシェは左腕をすっと前に伸ばし、静かに目を閉じる。
「こうやって歌いながら、私は世界中の人たちからの想いを受け止めていた」
最初はじわりと始まった。やわやわと胸の奥に重みが広がり、やがてそれは暴風となって身体の中で暴れまわる。全ての人がメタファリカに対して同じことを考えているわけではない。期待と不安、喜びと怒り、願いと欲望、そして祈り。
それぞれに全く違う想いが集い、動き、渦となる。
「怖かったわ。飲み込まれるかと思った」
うっすらと目を開ける。微かに汗をかいているようだ。まだ、あの時の恐怖がまだ消えずにくすぶっている。
「死の恐怖なんて何度も味わっていると思っていたけれど、それとも全く違うものだった。なんていうか、たくさんの砂の中に埋もれて、私自身もちりじりになって、砂になって、私というものがなくなって、でも意識はあるまま窒息するかのような感覚だった」
突き出した左腕が微かに震えている。その手にルカの両手が添えられる。
「そうだったんだね……」
微かに表情を曇らせる姉に、クローシェは微笑みかけた。
「いいえ、辛いのもあなたも一緒。いいえ、私なんかより、ルカの方がずっと命の危険があったのよ」
400年前の失敗では、澪の御子は無事で、焔の御子はその場で命を落としたのだから。
「うーん、確かにちょっと息が出来なくなって苦しいときはあったかな」
でもね、とルカは小さく舌を出して、
「なんとかなるかなーって、あんまり深く考えてなかったかも。詩に集中してたし、すぐにクローシェ様がなんとかしてくれるだろうって」
「……意外な舞台裏だな」
正直な感想を述べるクロアに、えへへ、と調子よくルカは笑い返す。
その様子に、クローシェも小さく吹き出した。
「なんだか、ちょっと気が抜けたかも」
「わ、私だってあの時は真剣に真面目だったよっ」
「さっきまでの台詞を聞いたら、説得力がないな」
「えーっ」
クロアの意地悪! と今度は大きく舌を出してやった。
頬が緩むのを感じながら、いまだ握られたままの左手を見る。ルカの胸元に寄せられて、すっかり震えは止まっている。うっすらと出ていた汗が冷えて、少々肌寒かったが、その分ルカの手の温もりが伝わってくるかのようだった。
包まれている左手の上から右手を添えて、ルカの手を包み返す。それも少しだけ強く。えっ、と驚いてルカが振り返る。クローシェは包んだルカの手に唇をよせて、ささやく。
「メタファリカが成功して、本当に、本当に良かった……ルカが、お姉ちゃんが命を落とさなくて本当に良かった」
「レイカちゃん……」
伏せていた目を上げて、ルカを真っ直ぐに見つめた。その肩越しに、真剣な顔でこちらを見つめている騎士の顔も見える。そんな彼には力強く微笑み返す。
「私ね、そのとき思ったの。400年前、焔の御子を亡くした澪の御子は、どれだけ嘆き悲しんだろうって」
少し間をおいて、小さく息を呑む音がする。
「彼女たちも、私たちと同じようにインフェルスフィアに挑んで、知り合って、ぶつかって、理解しあって、仲良くなったのよね? 彼女たちは姉妹ではなかったけれど、でも親友だった。これ以上ない友だった」
私たちがそうであるように。
「だから考えたの。そんな二人だったのに、自分の失敗が原因で友が死んでしまうなんて、どれだけ悲しいだろうって。考えても考えてもはかり切れないし、言葉にも出来ないし、詩にも出来ない、叫びもない、声も出ないくらいに、自分が無くなったかのような、いいえ、それでさえも足りないくらい、きっと悲しんだはすよ」
行き場のない悲しみは、やがてやり場のない怒りに変換される。
「力を貸してくれなかった世界中に人々に。彼女たちにそんな役割を押し付けた歴史に。そして何より、自分自身に」
声が、震えていた。唇が細かく痙攣する。再び手が震えだしたのがわかる。
「わかるの、私は知ってしまった。あれだけの多くの想いを受け止めたから。一人の人間でも思いつめればそれは膨大な感情になる。それはきっと、人の身でありながら世界の全てを覆いつくすわ」
壮絶な嘆きは、やがて絶大なる破壊衝動へと変わる。全て壊れてしまえと、己を含めた全てを呪うだろう。
そんな感情、クローシェは知らなかった。大事な人が「いなくなること」がこんなにも大きな気持ちだと。
クローシェは青い顔でルカの丸い瞳をみつめる。心配する姉は、わずかに混乱したように小さく首をかしげた。今は優しく自分を見守るこの瞳が、かつて涙に濡れて真っ赤になっていたのを知っている。
あの墓石の前、突然の事実にどんな感情も沸き立たなくてただ呆然と立ち尽くすだけだったあの時。おそらく、あの時始めて「私」は姉の泣き顔を見た。そしてその後すぐに見ていて痛々しいくらいに無理をして姉は笑いかけてくれた。泣きやんでほしくて声をかけたはずなのに、泣いている時よりずっとその表情は痛々しく見えた。
目を閉じる。私は知っている。
彼女はきっと聡明すぎる頭脳ゆえに、単純に悲しむだけでは終わらない。式と解を見つけてしまった。愛しい人を取り戻すための手段を見つけてしまった。
知ってしまったからにはとめることは出来ない。その先に、今以上の荒野が、いや虚無が広がるだろうと、同じ頭脳が別の式と解をはじき出す。だからなんだというのだろう。そんな式と解など糞くらえだ。雲海の底に沈めてしまえ。いや、惑星と共に砕けてしまえ!
押さえようもない感情が、全てを凌駕する。愛ゆえに狂い、狂いながら愛を求める。モラルなど、きっと彼女と共に死んでしまった。
いいや、そんなものはそもそも必要ない。必要なのは、この先数百年にわたるであろう孤独でも燃え尽きない愛と狂気。そして狂気に侵されず、愛にも曇らない、聡明なこの頭脳。
理性を持ちながら狂ってしまったのだ。狂っていると自覚しながら狂気が止められない、止めない。
息も出来ないくらいの愛に、再び満たされるために。
全ては愛のために。
「「クローシェ様!」」
呼び戻される。優しさに満ちた温かい世界からの声。
「レイカちゃん! 落ち着いて、ゆっくり息を吸って、そう、今度は吐いて、もう一度……」
「クローシェ様っ」
気がつけば、クローシェの手の上にクロアの手も重ねられていた。大きくて、皮膚が少しごつごつしていて、ルカと同じ温かい手。
息が上手く出来ない。私はいままでどうやって呼吸をしていたんだろう。そんなことも思い出せない。
ルカが背中を手でさすってくれた。クロアが強く優しく手を握ってくれている。触れ合う部分から、二人の呼吸が伝わってきた。そう、そうだ、呼吸はリズム。鼓動と同じ。
一度大きく息を吸って、長く吐き出した。大丈夫、私は大丈夫。
「レイカちゃん、すごい汗だよ」
「大丈夫ですかクローシェ様」
急に顔色が悪くなったクローシェだったが、その次に顔を上げたときには、生気の宿った目で見返してくれた。
「もう、大丈夫。二人のおかげよ」
まだぎこちないながら、にっこりと微笑んだ。やや心配性すぎる気のあるこの二人は、まだ不安顔だ。
「本当、本当に大丈夫」
自分でも苦しいな、と思ってしまった声色だったが、でも本当にもうなんでもない。
「二人がいるから、私は大丈夫」
そうだ、私は孤独ではない。
メタファリカは成功した。二人の御子を基軸に、世界中の祈りを一身に受けて、世界中の人々から祝福を受けて、あの愛しき大地は生れ落ちたのだ。初めて大地に立ったときの感触がよみがえる。土の匂いが、風の温かさが教えてくれる。この大地は確かにここにあるんだと。
強い風が吹き抜けた。汗が一気に冷えて、熱を奪う。クローシェは小さくくしゃみをした。
「風邪ひいちゃう! 中に戻ろう?」
「もうかなり遅い時間です。明日も朝からお忙しいのですから、今日はもうお休みになさってください」
全く同じ表情で同じことを口にする二人に、思わずにやりと笑ってしまう。
「あっ、もう! 本当に心配してるのにー!」
「ごめんごめんお姉ちゃん。そうね、もう戻りましょう」
でも、とクローシェはもう一度口を開く。伝えなければいけない。残さなくてはいけない。彼女の想いを。
私は、あなたに感謝の言葉を言いたかった。同じ過ちを繰り返そうとしていた私を叱ってくれてありがとう、私が殺しかけた姉を救ってくれてありがとう、メタファリカの誕生に力を貸してくれてありがとう。たくさんの感謝を伝えたかった。
だからあの日、駆け出すクロアに続いて塔を上った。
でも、その言葉はもう、本人に届けることは永遠に出来ない。
この数日間、ずっとその事ばかり考えていた。後悔、懺悔、悲しみ。忙しさに自我さえ忘れそうになりながら、根底ではずっと気がかりにしていた。
もう一つ。
私は、彼女の想いを受け取った唯一の存在。この偉大なる功績に、多大なる影響を与えた一人の少女の、本当の気持ちを私だけが聴いてしまった。
彼女の想いも確かにこの地に注がれている。その証として、誰かの中に彼女の心を残さなくてはいけない。私以外の誰かの中に。より多くの人々に伝えたい。
いいえ、伝えなくてはいけない。
「インフェルが、心を閉ざして失敗しかけている私に、最期に本当のことを言ってくれたの」
いきなりの言葉に、二人が揃って目を丸くしている。
そんな二人に、世界で最も大切で愛しい二人に、精一杯の笑顔で言うことから始めよう。
彼女の本心からの叫びを、想いを、願いを、祈りを伝えよう。
「メタファリカは私の夢だった、って」
孤独の中に生まれ、ようやく手に入れた愛は己の手で殺してしまい、狂気と絶望の中で、それでも彼女が目指したもの。彼女の中にあった形は歪んでしまったかもしれない。でも、彼女が最も望んだ形で、今ここにそれがある。
彼女の設計した夢が、今ここに存在している。
知らず、クローシェの膝の上に水滴がこぼれた。ぱたぱたと、止め処なく流れ落ちる。握り締められた3人の手のひらにも、それは降り注ぐ。
あの少女の、数奇な運命を嘆くための涙ではなかった。
過酷な現実に何度も打ちひしがれても、それでも最後の最期まで忘れずにいた尊い灯火を前に胸が熱くなる。
私はこんな感情を知らなかった。大地を創るのだと声高に叫びながら、それでいて今までの私は私は多分きっと何の感情も持っていなかった。ただ「そうすれば役割をまっとうできる」という責任感だけが私を動かしていた。
民が大地を願う祈りも、それを夢とした人たちの情熱も、私はほんとうに、謳う瞬間まで知らなかった。
でも私はもう知っている。膨大な想いの中で千切れそうになりながら、けれどその岩のように荒削りの祈りは確かにあの愛しい大地を願う強い想いなのだ。溺れそうになる私の手を掴んだのは、その莫大な想いを束ねようとしていた青い髪の少女だった。
「この新緑の大地は、彼女たちの、そして『私たち』の夢の結晶なのよ」
忘れてはならない。刻み付けなければならない。彼女の、みなのこの愛を。これから生れ落ちる命に渡していかなくてはいけないのだ。
それがきっと、これからの澪の御子の役割なのだ。
感謝の言葉を伝えることが出来なかった。それは悔いだ。どうしようもない後悔だ。
だからその代わりに、彼女の尊きその意思を、今、ここから、世界中に伝える。
ここから、始める。
ここから、彼女の愛は、この愛しき大地の上で花開く。
なんの望みももてない世界で、1000の種を絶たれ、それでも1001個目の種を植えて、それは愛の実を成した。
だから少女は祈る。心を込めて、想いをこめて、祈る。ようやく実った愛の結晶に、祈りを込める。
だから、孤独と絶望の中、種を植え続けた少女の物語は最後はこう結ばれる。
「愛を 永久に――」