FRELIA
3021 「プロジェクト・メタファリカ始動」
3026 ソル・マルタ設計図完成
3027 ソル・マルタがメタ・ファルスの地で組み立て開始
3032 レーヴァテイル2号体「フレリア」誕生
3038 フレリア、ソル・マルタへ。ソルマルタ、天高く浮上
3058 Dセロファンの効果判明 フレリアとの擬似再会
3075 インフェル・ピラ構想がパスタリアで生まれる
3080 新約メタファリカ理論完成
3150 インフェル・ピラ、ファーストステージ計画開始
3162 インフェル・ピラ完成するも、正常に動かず失敗
3215 新緑の大地宣言、メタファリカ大聖堂の建設開始
3256 大鐘堂庁が「インフェル・ピラ」計画の再構築を発表する
3264 インフェル・ピラ計画の開始
3275 「インフェル・ピラ」設計着手
3291 初のインフェル・ピラ依存体「I.P.D.」が転写される
3295 14代目御子に「ネネシャ」任命
3298 初代澪の御子が誕生する
3299 大鐘堂により、御子が「焔」と「澪」の2人となることを公表
3308 新しいヒュムノス律「新約パスタリエ」がプログラムされ始める
3310 メタファリカα版完成
3313 合体メタファリカを謳うも失敗。神との戦争に突入する。ネネシャ死亡
3315 神との戦争に勝利する
3319 神と人々との契約条項が成立する
3344 I.P.D.暴走による、パスタリア市街地での大惨事発生
3345 I.P.D.と暴走の因果関係を見つけるためのプロジェクトが結成
3357 ラクシャクからメタファリカ信者がミント区を開拓
3394 I.P.D.情勢が悪化する
3424 ネオエレミアからの来訪者、インフェル・ピラを乗っ取り支配権強奪
3435 時の御子イリューシャ、エレミア人殲滅
3441 対外的防衛構想制定
3745 32代目御子「アーシェ」、14歳御子になる
3748 HC「ハイバネーション」完成
3751 教皇急死、アウフマン摂政が政治的トップに
3753 御子アーシェがI.P.D.暴走によってエナ宮殿で死去
3745 カナカナ突堤I.P.D.襲撃事件
3260 33代御子「クローシェ」、5歳御子になる
3761 チェスター大鐘堂離反、神聖政府軍を創設
3771 大規模陥没 パスタリアのみならず、リムの一部も欠損
3772 ラクシャク保養地襲撃事件発生
(初回特典冊子より引用)
「呪われし大地」メタ・ファルス。人々はこの大地をそう呼んだ。
草木もなく、土さえもない、大地と呼ぶことさえはばかれるような無骨で巨大な鉄の塊の上に、わずかにかすかに根付くほんの少しの資源を糧に、人々は刹那の時を生きる。
人は、生き物は、全てはやがて死に至り、残酷な鉄を覆うほんのわずかな土となる。時には死ぬことさえ自覚する間もなく、大地の陥没によってはるかな雲海の底に消失することさえ日常となっている無慈悲な大地。
全てを否定してしまいたくなるほどに過酷な環境に生れ落ちた人々は、緑あふるる理想郷メタファリカという、誰も目にしたことがない、古い文献にさえ残っていないような、命に満ちたりた夢世界を信仰として生きてきた。
全てに優しくされない残酷な環境で、全てに優しくされる満ち足りた世界という、皮肉とも自嘲ともいえない言葉でささやかれながら、しかしその性根では誰もがそれを待っていた、望んでいた、欲していた。
誰もが皆、誰かに優しくできる世界を夢見ていた。
枯れた大地の嘆きから生まれた信仰は、やがていくつもの論争を生む。
論争はやがて人々に拳を握らせ、握り締めた拳は剣をとり、振るわれた剣は肉を切り裂き、傷つけられた肉からは血が流れ、やがてその血はメタ・ファルスの地の上で川となる。川は歴史となり、歴史は別の論争を生み、そして川は時を追うごとに太く長くなっていく。
そうして、夢から生まれた美しき信仰は、血の川と成り果て呪われし大地の全て覆いつくす。
人は、それでも生きていた。
刻々と広く深くなっていく川の中でもがきながら、それでも人は理想郷を探していた。
探すための過程によって、より己を溺れさせることになろうとも。
アルトネリコ第2塔管理施設ソル・マルタ、アルシエル球の間。
不思議な七色の輝きを放つ金属と、空気のように透明でしかし表面に傷一つさえない不思議なガラスで覆われた、神のための神聖な舞いの台。
若葉のような輝きの羽を持つ少女フレリアは、その部屋の端に立ち、じっと己の足元の向こうを見つめていた。
彼女の眼下には、砕かれた惑星アルシエルとそれを覆う死の雲海はかつての地表であったもの。はるか昔、一握りの国同士の覇権争いによって、この惑星はその形でさえも砕かれてしまっていた。
人々は逃げ惑いながら雲海にぽつんと浮かぶ、ただの鉄の塊に逃げ込んだ。そこには土も水も、およそ生命が生きていく上で必要となるであろう資源は何もない、本当にただの鉄の塊だったのだが、それでも人は生き残らんと必死に逃げ込んだ。
争いから逃れるために逃げ込んだ世界で、人は再び争いを繰り返す。生きるために。日々を心安らかに生きるために。争わずにすむ世界を夢見て、結局争うのだ。
ほんの数日前までこの間も神々しき舞台も戦場だった。それも、この世界に細々と生きる人全ての生命に関わる、残酷で重大な戦いが行われた。
この塔の管理者であるレーヴァテイル・フレリアの数百年にもわたる寵愛を受けて育まれた、ささやかで、神聖で、全ての生命に優しいその森は、無礼な闖入者の手によって存在を書き換えられ、巨大で、醜く、邪悪な生命にゆがめられて訪れたものに牙をむいた。
殺伐とした世界に少しでも優しさが宿るようにと歌ったのがきっかけだった。森で生まれた種はリムにおりて芽吹き、実を成す。下界へのかすかな介入。かろうじてその醜い生命は倒されたものの、しかしかつての優しい森はもう戻らない。
人は優しさを求めていたはずなのに、その優しさは人の手によって砕かれた。
「何を考えているんだ、フレリア」
立ち尽くすフレリアの脇から青き狼がのそりと身を乗り出して、彼女の顔を覗き込む。
「エンジャ」
「あの森のことは残念だが、もう終わってしまったことだ」
いつものように淡々とした口調でフレリアを慰めてくれる。姿が変わってしまっても時間が何百年経っても変わらないその様子に、フレリアの顔にようやく笑みが生まれた。
「うん、そうだね、わかってる。でも、あの森はエンジャの方が気に入っていたんじゃないの?」
「フレリアの作った森だからな」
なんのてらいもない言葉にフレリアも嬉しくなって「ふふっ」と声に出して笑う。もともと幼い顔立ちの彼女の顔に、子供のように無邪気で純心無垢な笑みが浮かぶ。
「残念だったけど、また作るよ。ううん、もういらないかもしれないね」
彼から視線を外し再び足元をみやる。その視線の先には、雲海に漂う小さな木切れのような土色と緑に覆われた影が見えた。
「メタファリカが出来たから」
「そうだな。森林浴を楽しむには格好の場所だろう」
メタ・ファルスの民の悲願であった夢の理想郷を前にしても、いつもと変わらぬ実利的な考えを崩さない。
「エンジャらしいね」
「そのメタファリカを見て、何を考えていたんだ?」
「色々。そう、色々考えてた」
自身が生まれてからすぐにここに配置された。音を力に変換し、歌に力を与えて人々の役に立つようにと計画されたアルトネリコ第2塔はメタ・ファルス地方にあった。この地で生まれ育ち塔を作りながら、この地の民の姿を見つめ続けていた。
理想郷メタファリカ。全ての人々が日々を努力しながら明日に希望を持って眠りにつける場所。この地の人々は塔建設の計画がなされるはるかな昔から、そんな夢物語のような大地の夢を通して創意工夫し切磋琢磨しながら生きている。
その過程で血も流れた。涙はもっと流れた。命は流れるように消えていった。
メタファリカという夢こそが人々を過去に縛り、しかし人々を明日へと押しやる力となる。ここではそんな不毛ともいえるやりとりを延々続けてきたのだ。
そんな人々の姿をこの天上の地でずっと見つめていた。何も言わず、言うことが出来ず、何も指し示さず、指し示すことが出来ず、何も導かず、導くことが出来なくて、ただずっと眺めるしかなかった。
今もそうしているだけだ。
「でもね、エンジャ」
芽吹いたばかりの若葉のような輝きをたたえる瞳が、わずかに細められる。
その視線の先には何度も何度も人々に希望と絶望を与え続け、血と涙と命の瓦礫の上にそびえ立つ伝説の大地があった。
LUCA_with.Frelia
私は上手にあなたの役に立っていますか。
私は上手にあなたの力になっていますか。
私は上手にあなたの支えになっていますか。
「彼女の最後を知りに行く」
と、再び塔を上ろうと言い出したのはクローシェだったが、なんとなくきっと彼女ならそう言い出すのだろうなと、少し前から予想してる自分がいた。
朝起きて澪の御子の寝室に向かうと寝巻きのまま、しかしその眼差しは鋭く真っ直ぐに窓の向こうを見上げて立ち尽くすクローシェがいた。真っ白な朝日が差し込む窓辺にすっくと立ち、早朝の澄んだ空気をまといながらその目はじっと新緑の大地を見つめている。
そんな姿を見たときから、きっと今日がそういうことなんだろうと勘が働く。
「ルカ、私と一緒に来てくれないかしら」
力強い決意の影に、かすかな恐怖が見えた。はっきりさせると決めたものの、まだ恐れは残っているようだ。
そんな妹の姿が愛しく思えて、もちろんだよレイカちゃん、と微笑みながら返す。それを見たクローシェは険しい表情をわずかに緩ませながら「ありがとう」とつぶやいた。
その後、ルカと同じ調子で呼び出されたクロアも察していたのか、クローシェの提案にも特に驚いた様子もなくいつもどおりにごく自然とクローシェの手をとり先陣を切って歩き出していた。
並び歩く二人の背中。いつも頼りにしているその背中は今日も変わらずそこにある。
その背中を見て昨夜のことを思い浮かべる。あの夜に見た二人の憂いと苦痛は、決意とわずかな恐怖に変わっているようだった。
メタファリカを謳いきり、悲願の新緑の大地を創生し、そしてその直後にあの塔に登って彼女を迎えに行ってからというものの、どうも妹クローシェの様子がおかしいことには気づいていた。
偉業を成したお釣りとばかりに現実は怒涛の展開を押し付けてくる。メタファリカへの具体的な移住計画を軸に、新たな御子体制および政治体制の確立にともなう儀式や式典、制度や法律の整備のための会議や資料が山となって襲ってきたのだ。
それらを主に捌くのはクローシェの担当となったのだが、かといってルカが何もしなくていいわけではない。むしろ奔走する妹をサポートするべく常に二人一組で行動し、妹の言動を影ながら支えるため膨大な書籍や書類を読み漁り、難しい言葉の飛び交う会議にも出席し、苦手としている多くの人前に出る機会も数え切れないほどあった。
しかし自分は特別発言をするわけでもなく、人前に出るわけでもない。それは妹の役目だった。
ただ妹の隣に立ち、妹の行動を観察し、時折眉根を寄せて押し黙る妹を見ては、自分の拙い感想や意見を伝えているだけだ。
はたしてそんな自分が妹の役に立てているのかどうか、全く自信がない。
それでもクローシェは何かあるたびに「一緒にいてほしい」といってくれる。こんな自分でも役に立てているのかと疑問に思いもしたが、最愛の妹が真摯にそういってくれる分には無性に嬉しく、出来うる限りその言葉に応えようとした。
そのたびに自分の力のなさに落ち込んでいる。
落ち着かない数日間、忙しさに殺されそうになっている妹がふいに遠い何かを見つめるような仕草をするのに気づいた。それは特にメタファリカへの視察であったり、天を突く塔の姿が見える場所を通りがかるときに限って、ふと視線を外して立ち止まる。
何を見ているのだろうと何度も声をかけようと思ったが、そんな顔は本当に一瞬でしまいこまれ、あっという間に現実を見つめる顔に巻き戻るのでどうにもタイミングがつかめない。
そんなときの顔は本当に思い悩んでいる風だった。いや、あれはいっそ思い詰めている顔だ。
あんな顔を見せられては姉としては非常に気になってしかがたがない。また、ほんのわずかとはいえ今をときめく御子である妹が、些末なことに気をとられるのは社会にとって多大なる損失だ。
何よりそんな憂いが妹のためになるとは到底思えなかった。
もう一つ気がかりなことがある。クロアだ。
メタファリカ創設の後、御子二人からたっての願いもあって御子が公的な場所に顔を出すたびに護衛として必ず同席し、脇に控えていてくれた。
そんな彼も妹と同じく時折不思議な表情で、メタファリカやアルトネリコを見つめている。
しかし何かに思いつめているような顔の妹と違い、彼の場合は何かに傷ついているような、苦痛に耐えているような顔をする。時には見ているこちらが胸をナイフでえぐられるような痛みを感じてしまうほどのもので、とてもではないが黙って見ていられなかった。
だからそんな顔を見せた瞬間を見逃さず、何も気づいていないように装って、なるだけ明るい声で話かけたりもした。
どうしたの? 長い会議でお腹でも減った? 私もうくたくたで。あんな議題で時間をとられすぎだよね。もっとクローシェ様みたいに何事も簡潔にお話できないのかな。ああほんとお腹減ったなあー。ラクシャクのレストランの日替わり定食が懐かしい!
自分でもわざとらしいとは思っていたが、だからこそ何か言われる間に早口でまくし立てた。最初はいきなりの気の抜けたおしゃべりに目を見開いていたが、辛そうだった顔が微笑みに変わってくれたときには少しばかりドキリとして浮かれてしまった。
そんな調子で一方的にまくしたて、クロアの方からも一言二言返事があって、あ、次の場所に移動だって、行こうクロア。はいおしまい。
その後は話の口実のためとはいえ、食べ物のことばかり言うのははしたないだろうかとか、会議に対して何も発言していない自分が妹の名前を前に出しては一丁前のような口を聞くのは本当に最低だなとか、そんないつもどおりの反省と自己嫌悪。
次こそ私も何か言ってやるんだと心に決めて、わずかな移動や休憩時間を縫い、時には自分の飲み込みの悪さの代償として本来は睡眠にあてる時間も大幅に割り当てて、資料に目を通す日々を過ごしていた。
そんなある日、珍しくルカとクローシェが一日中別行動で過ごしていたその深夜。
ようやく自分の担当であった部分が終わり、誰もいない宮殿の廊下で誰の目にも触れないことをいいことに盛大に背伸びしあくびをしながら、自室に戻ってこのカチカチで棒のようになってしまった足を丁寧に慰めてあげようなどと考えていた時のこと。
ふいに、視線の端に白い影が見えた。このあたりは古くからある建物で、あちらこちらに非常に年季の入った作りからあまりの雰囲気の出来上がりっぷりに、すわ幽霊か、と身をすくませる。
怖がっている割につい好奇心で柱の影から顔を出す。幽霊を見たと面白おかしく話すならば、クローシェやクロアももう少し緊張の抜けた笑顔をしてくれるだろうか。
「って、クローシェ様?」
ささやかな算段をはじきながら幽霊を見届けようと覗き込んだ先には、その幽霊話をしてあげようと思っていたクローシェ自身が、ふらふらとした足取りで廊下の向こう側を横切っていた。
あの先には何があっただろう。毎日毎日、散々練り歩き走り回っていた宮殿の見取り図と照らし合わせる。
「……」
考えうる限り、あの場所しかありえないだろうという結論に達する。その瞬間、チャンスだと思った。久方ぶりの姉妹水入らずの機会だ。そう理由付けている頃にはクローシェが消えた曲がり角に向けて駆け出していた。
そういえばかつては毎日のように夜に二人だけでおしゃべりしていたというのに、メタファリカが成功して以来、そんなささやかな交流も忙しさと睡魔に負けて今ではすっかりなくなっていた。どうやら私たち姉妹間においてはメタファリカは二人の仲を引き裂く悪魔らしい。可愛らしく愛しいだけにより小憎たらしい小悪魔か。
……そんなことはどうでもいい。どうでもいいことをいちいち考えてしまっては、理屈をつけている自分が嫌だった。
どうでもいいどうでもいい他の事はどうでもいい。今はこのチャンスを逃す手はない。私と妹の間に入り込めるものなどありはしない――
新月の夜のような色の瞳を辛そうに細めた様子が脳裏をよぎる。
――あ、と声を漏らすと同時に、かかとでブレーキをかけてUターン。確かあの瞳の持ち主は、今日はもう帰るから、と言っていた。それも随分前に聞いた。今はパスタリアの自宅だろうか。
ついでだ。ついでというには彼のこともルカにとって非常に重要な要素ではあったが、クローシェだってそれに負けてはいない。ある種、どちらもどちらかのついでとも言える。こういうのを一挙両得というのだったか。
何はともあれついでに彼もこの機会に呼び出そう。そしてどうにかして手段も方法も何も具体案は浮かばないがともかくどうにかするのだ。
現在の場所から彼の自宅への最短距離をはじき出しながら、一日の労働で疲れきっていたはずの足を全力で動かした。
「クロア!」
突き飛ばすようにクロアの家の扉をあける。ノックもせずに無礼だとは自分でも思ったが、逸る気持ちが止められなかった。
いつもの私服に着替えていたクロアは深夜の来訪者に驚いた顔で振り返る。
「何かあったのか!」
血相を変えて飛び込んできた御子の姿を見て緊急事態だと思ったらしい。脇にあった愛用の槍に反射的に手をかける。
しまった、と思わず言いそうになる。緊張をさせに来たのではない、ごくごく穏やかにお話しするためのお誘いに来たのだから。
弾む息を整えるフリをして時間を稼ぐ。深刻そうにこちらを見つめる幼なじみの表情に少々の罪悪感を覚えながら、次の句を探した。
「あ、ええと、違う違う。違うのクロア。そうじゃなくて、そういうのじゃなくてね。えへへっ」
失態を誤魔化すように、できるだけおどけた風に見えるよう大げさに手を振って、その手に持った物騒な槍をおろさせる。
「……なんだっていうんだ?」
変化の激しい幼なじみの様子についていけないのか腕を組んで首をかしげる。
今度は別の方向で警戒させただろうかと内心冷や冷やしながら言葉を続ける。
「あのねっ、星が綺麗だから、一緒に夜のお散歩しながらお話したいなーって」
「散歩? 話がしたいなら、別にここでだって」
怪訝な色がさらに深くなる。そう、彼だって今日一日働き通してようやくの帰宅。今だって心底疲れているはずだ。貴重な睡眠時間を削ってまで外に連れ出すには、それ相応の理由が必要だろう。
理屈を通すことにかけては向こうの方が上だ。だからここは勢いで押し切るしかない。
「えーっとね、ここからでも星がすっごく綺麗なんだけど、せっかくだからちょっとだけ宮殿の方に行って見てみない?」
「……って、いくらルカでもこんな深夜に勝手に歩き回るわけにはいかないだろ」
「そうなんだけど、でもほんのちょっとだけでも行ってみたいなーって。今の時間なら宮殿のあの辺にも誰もいないし、私たちならロックを開けて中に入れるし、星が綺麗だし――ねっ」
言葉だけで説得できると思えなかったから、両手を胸の前で合わせてなるだけ気弱そうな顔をつくる。
冷静な視線が一瞬ひるんだのを見逃さなかった。幼なじみが押しに弱いのは誰よりも知っている。もう一押しついでに釘も刺す。
「だからね、お願いクロア。二人だけでお話しない?」
「だけ」を強調して少しだけ意味深な言葉を使ったこと。結果的に二人ではなくなること。貴重な機会に2階で眠っているであろう妹分を起こしてまで連れて行こうと言い出すことを事前に封殺したことなどなど。積もり積もった罪悪感をちくちく刺激されながら必殺の上目遣いではっきりと「おねだり」した。
少しだけ頬を染めて眼鏡の奥の視線がちょっとだけ横に逸れる。
やった、と内心拳を握って更に内心もう一言。クロアのスケベっ。
インフェル。
数百年前に眠りについていたフレリア様に成り代わり、世界規模での魂の昇華を引き起こして世界に生きる全ての人々に緩やかな停止を与えようとしていた人。その計画の停止を賭けて私たちは戦い、勝利し、彼女からメタファリカを紡ぐ許可を得た。肉体ではなくインフェルピラのデータとして存在していた彼女は、メタファリカの創生とともに変質するインフェルピラの機構に巻き込まれて、この世から完全に消し去られた。
正直言うと自分の中で「インフェル」とはそういう人物だった。これだけで説明できる存在だ。
そんな彼女相手に、二人は何か思う部分があるという。いや「何か思う部分」などというには具体的かつ強烈な思い入れがある。
クローシェは、彼女への感謝とその意思を継いだものとしての迷い。
クロアは、彼女を通して己の言動を省み苦しんでいる。
あの夜、二人は私を前にしてその心情を吐き出した。そのときの二人は共に涙を流していた。彼女のことでどれだけ迷っていたか傷ついていたのか、その姿を見ただけで痛いほどに理解できた。
助けてあげたかった。その傷を癒してあげたかった。少しでも気を楽にしてほしかった。支えになりたかった。
私にそれが出来ただろうか?
二人を前に思わず勢いだけで行動をしてしまった。
妹の迷っている真意に気づいてあげられなくて、なんて頼りにならない妹だろうかと呆れられたかもしれない。迷っているときに、何も言葉をかけてくれなかったといって見捨てられるかもしれない。
子守唄のことに気づいたのは本当にただの思いつき。それこそ直感のようなものだった。実際どうとでも解釈できる。特にあのクロアのことだ、後で考え直してこじ付けだったと気づくかもしれない。そうしてまたやっぱり救えていないのではないかと落ち込むかもしれない。
そのときの精一杯だった。それなのに思い返せば思い返すほど自分の言動の粗が見える。時間が経てば経つほど別の方法があったように思う。しかしその別の方法もはっきりとは思いつかない。自分の精一杯はこんなものなのかと空しく手を見つめる。
それに。
視線を上げた。ソル・マルタのガラスのような通路は足元を見れば、目もくらむような高度にあるとまざまざと知らされる。手すりも何もないので端によって少しでもつまづけばまっ逆さまに落ちてしまうだろう。
見ただけでも足がすくんで進めない通路をルカより数歩先を迷わず突き進む二人がいる。足がすくんで上手く動かなかったが、二人において行かれないように必死でついていった。
最初にここを通ったときは世界からの期待を背負い、頼れる仲間と共にいて、何も恐れることはなかった。
二度目にここを通ったときはメタファリカが成功し仲間たちと歓喜でもみくちゃになりながら、ふと何か思い出したかのように突然走り出したクロアとクローシェを追って、他の仲間たちをその場に置いて思わず駆け出した。二人の突然の行動にわけもわからず追いかけて、高度に恐れている暇もなかったように思う。
そして三度目の今。二人の決意を前にしても私には何もない。だから足がかすかにすくんでいる。
インフェル。声に出さずその名前を呼んだ。
400年前の澪の御子。インフェル・ピラの設計者。偉業を成すあと一歩までつめるが、最後の最後で全てに裏切られて最愛の共を失った哀れな娘。数百年の時を越えて己を裏切った全てに復讐するため、その歪んだ愛情で世界を昇華させるために立ちはだかった世界の敵。
何度も思い返すがそれ以上の何かが出てこない。
(私は彼女となんの接点もない。だから、彼女のことをこんなにも知らない)
自然、足元を見ていた視線をもう一度上げる。変わらず世界一頼りになる二人の背中が見えた。
自分の手を握り少女の言葉を泣きながら繰り返していた。自分の腕の中で押し殺すように泣きながら一人孤独に逝った少女を想っていた。
(私は?)
何を想っている? インフェルという少女に対して、自分はどんな感情を持っている?
そんな薄情な自分が、この二人と共にここにいていいのだろうか。
二人の苦痛をやわらげたいのに少しでも肩の荷をおろして楽になってほしいと心から思うのに、私はその心に共感できていないでいる。
優秀なセラピストはダイバーの心理を理解し、共感し、汲み取った上で求めているものを差し出す。
血のにじむような努力の上に習得した自慢の技術こそが今の私は無力だと告げる。私は求めるものを返すことも出来ない。
そんな自分でいいのだろうか。
二人はこれから始まるメタ・ファリカの歴史にとって非常に重要な存在になるだろう。私はそれを支えたい。だから努力する。
でも届かない。どうしても届かないのだ。私は二人ではないから力が及ばない。
(そんな私なんかが、この二人の傍にいていいのだろうか)
知らず握り締めた拳から血がにじんだ。
銀色の扉が音もなく開かれた。
床に座っていた瞬が機敏に立ち上がって振り返り、そばに立っていたフレリアがそれに遅れてゆるゆると振り返る。
「皆、来てくれたんだ」
常にどこかぼんやりとした眼差しのフレリアがふわりと笑う。幼子のように愛らしい顔立ちでどこか神秘的な雰囲気をまとう彼女が、そんな親しみのある表情を見せてくれると思わず全員ドキリとする。
「どうしたんだ」
打って変わっていつもと変わらぬ淡々とした調子の瞬。フレリアに見惚れていた意識が一気に冷める。それでも警戒されていないだけましかもしれないと、かつて何度か敵対した頃のことを思い返してクロアは内心苦笑する。
クロアとクローシェは一瞬目配せして言い出したのはクローシェだった。
「突然の来訪、まずは非礼をお詫びいたします」
「そんな堅苦しい言葉じゃなくていいよ」
クローシェの言い回しが面白かったのかフレリアはくすくすと笑い出す。その隣の瞬も特にフレリアの言葉に何も言わずにただ腰を下ろした。
今度はクローシェから見て、クロアの反対側の隣に立つルカに目配せする。視線に気づいたルカは言葉もなく小さく頷いた。
ゆっくり息を吸って吐き出し、調子を変える。
「ごめんなさい。少し緊張していたみたいね」
「それでいいよ。少しの間だったけど皆にはよくしてもらったから、皆にまたあえて嬉しい」
「この前は挨拶もなく押しかけては帰って行ったというのに、今日は随分殊勝な構えだな」
瞬の何気ない言葉に思わず三人は苦笑する。
そう、あのメタファリカを成功させてその足でやって来たときには、挨拶をする余裕もなくただ勢いだけで飛び込んだのだ。ただあの少女と会いたい一心で。
思い出してずきりとクローシェの胸が痛んだ。そのときに彼女はもういなかったのだから。
いいえ、今は傷ついている場合ではないのよ。
「今日来たのは、彼女の、インフェルのことを聞きにきたの」
「インフェルちゃんの?」
クローシェの言葉に、軽く目を見開いてフレリアは隣の瞬と顔を見合わせた。
「インフェルちゃんの、何を?」
「それは、その」
何を、だろうか。冷静にあれとあれだけ心がけてきたというのに案外考えがまとまっていないことに気づいた。
「インフェルの、最後、はどんな様子でした?」
「最後」という言葉に躊躇しながら、少しだけ身を乗り出したクロアが言葉を継いだ。焦ってまごつくクローシェとは対照的に彼はこんなときでも冷静に目的を忘れない。
真剣というにはどこか威圧的すぎる。いや、追い詰められているような必死な色が見えるクロアを前にフレリアが少しだけひるんだ。逃げ場を求めるように脇の瞬に視線を向ける。
それを受けた瞬はやれやれとでも言いたげにため息をして、一歩前に出た。
「彼女は己が消えてしまうことをすでに承知していた。まあ、なんといってもインフェル・ピラの設計者だ。その仕様は誰よりも詳しいだろう」
素っ気無い瞬の言葉に半ば察していた事実を告げられる。やはり彼女は自分が死ぬこともあの時点で知っていたのだ。
ならば何故、戦いに勝ったとはいえ結果的に己を消そうとしている自分たちを黙って見送ったのか。何故「迎えに来る」という不可能な未来に逆上しなかったのだろうか。
「多分、逃げ出すことも出来たんだと思うの」
言うべきかどうか迷っているという顔でフレリアは言う。
「じゃあ、どうして……?」
喉から搾り出すような、かすれたクローシェの問い。フレリアは、静かに頭を横に振る。
「わからない。手段も方法もいくらでもあったと思うし、インフェルちゃんだって本物のメタファリカを見たかったと思うよ。インフェルちゃんだって生きていたかったと思う」
「そう、だよな」
「生きていたかった」というフレリアの言葉に、クロアはうつむいてそこにいない誰かに向かって呟く。その顔はまったくの無表情だったがまるで泣いているような声だとルカは感じた。
沈黙が降りる。
重苦しい空気の中、ルカがふと視線をおろすとそこから足元からメタファリカが見えた。
新緑の大地はその地に立っていると広大な大陸に思えたが、天上からはまるで雲海に漂う小さな木屑のようだ。
彼女は、ここからこの生まれたての大地を見てどう思ったんだろうか。どう感じたんだろうか。数百年にわたる恐ろしいまでの執念の計画を破綻させられて生まれたのが、こんな小さな小さな土の塊だったのかと嘆いたのか。悲しんだのか。やはりサブリメイションを行うべきだったと消えゆく意識の中で世界を呪ったのだろうか。
彼女には歌は聞こえただろうか。彼女もかつて口にしたというあの歌を。
瞬間、電撃が走った。
(ああそうだ)
「ねえフレリア様」
「ん?」
アルシエル球の間に入ってから、これまで一言もしゃべっていなかったルカが勢いよく声を出す。
「インフェルさん、最後になんて言っていましたか……?」
ルカの大胆な言葉に驚いてクロアとクローシェが同時に彼女の顔を見た。二人の顔にははっきりとした戸惑いと少しの恐怖が浮かんでいる。一番聞きたい事をどうしても切り出す勇気がなかったとその顔に書いてある。
大丈夫、とそんな二人にかすかに微笑んで返した。そんな返しは予想外だったのか二人とも目を丸くする。
「ねえ、教えてくれませんか。インフェルさんは最後に何か言ってませんでしたか?」
「インフェルちゃんが最後に言っていたこと?」
尋ねられたフレリアは少しうつむいて、思い出すような仕草をする。
クローシェの顔がかすかに歪む。ふと右手からあたたかな感触がした。隣に立つルカの手が伸びてきてクローシェの手を握っていた。反射的にそちらを向くとルカが「大丈夫」と声に出さずに微笑み返す。
何を? と返す前にフレリアの言葉がそれをさえぎった。
「やるじゃない、って」
「え?」
クロアとクローシェがそろって顔を上げる。
「やるじゃない、設計者を越えるなんて、って」
ええとと少し口ごもってさらに続ける。
「この世界をよろしくねって」
ルカの手にあたたかな痛みが走る。
呆然と立ち尽くすクローシェの手が知ってか知らずか強く握られていた。
「インフェルちゃん、笑いながらそう言って、消えたの」
今度も言葉はなかった。いや、いらなかった。
クロアの口から、ああ、と小さな息が漏れた。
新緑の大地メタファリカは今日もやわらかに降り注ぐ日差しを受けて、その緑を輝かせている。
ソル・マルタからの帰り道、せっかくだからと三人は少しだけこの愛しき大地を散策することにした。塔を上るために無理やり空けた時間はもう少しだけ余裕がある。これが終わればただでさえ詰め込まれたスケジュールを更に圧縮させて、いっそ歪になってしまっている予定をこなすことになるだろう。
だからそのための英気を養うためにも、とクローシェは二人にそういった。
涼しい風の通る木陰に陣取ると、甘えたがりな妹の顔になったクローシェがルカの膝枕をねだった。先ほどまでの息を詰めた様子から一転しているそんな姿を見てルカはよかったと胸をなでおろす。再び塔に上ったことで妹の様子は好転してくれたようだった。
ちょっとだけだよ、とルカは釘を刺しておいて内心その甘えを嬉しく思いながらその膝をかした。それを見てクロアは何も言わず、見張りだといわんばかりに二人とは反対側の木陰に隠れるように立っている。
そよそよと微かに湿った涼しい風が流れる。よく日に当たった草と土はやわらかに温かい。ルカに膝枕してもらったクローシェは腕を大きく広げて雲ひとつない空を仰ぎ見た。
「ああ、本当にいい天気」
そんな当たり前のことでも心から嬉しそうにもらす妹の姿にルカは優しくその髪を撫でる。
「うん、そうだね」
空気の味を楽しむかのようにクローシェは大きく吸い込み、そして吐き出す。
「なんだかさっきまでとは天気が違っているように思えるわ」
「そうかな? 今日は朝からよく晴れていたよ」
うん、とクローシェは同意しながら、そうね、と続けて少しだけ憂いのある笑顔を浮かべる。
「朝からよく晴れていたけど、なんだかもっとさすような日差しだったような気がしてた」
「それはきっとレイカちゃんの気の持ちようが変わったからだろうね」
「やっぱりそうなのかしら」
「うんっ。今のレイカちゃん、すごくいい顔してるよ。なんだか肩の荷が下りたみたいな、んな清々しい顔してる」
「肩の荷、か。そうね、そうなのかもしれない」
一瞬遠いところを見るような目をして、クローシェはルカの顔を見上げた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
え、ともらしてルカが固まった。
意外な時に、意外な言葉に、意外な展開に、ルカの思考が止まる。そんな心境を知ってか知らずかクローシェは言葉を続けた。
「ありがとう、ルカ。あの時、一番聞きたかったことを聞いてくれて」
「ああそんなこと」
アルシエル球の間でのことだろう。言葉をなくす二人に代わってルカが一番重要な質問をした。
「あれは、二人が聞きたそうにしているのに全然言う気配がなかったからね」
えへへっ、と照れたように笑う姉の姿にクローシェは真剣な眼差しで見つめ返す。
「……私、ずっと怖かったの。彼女の最後を知るのを」
自分から言い出したのにね、と苦々しく小さく呟く。
「インフェルの想いを夢を引き継ぐんだってこの大地の上に残すんだって決めたはいいけど、もしその彼女がこの世界を最後まで呪っていたらと思うと、本当に怖くて」
インフェル、という言葉にルカの胸が鈍く痛む。そうだったんだ、と笑って相槌うちながら心の中ではほのかな罪悪感が芽生えていた。その背後でかさりと小さく音がした。クロアが少しだけ身じろぎしたらしい。
「もし、もしも彼女がこの世界のことを嫌っていたらその意思も挫けるんじゃないかって、ううん、きっと挫けて折れて、胸に突き刺さっていたかもしれない」
世界からの裏切りを受けて最愛の友を失いその嘆きと怒りを糧に孤独を耐え抜いた彼女が、数百年経った今でもこの世界を恨まないわけがない。いや恨まずにいられるわけがないのだ。
「たとえそうだとしても、私はインフェル・ピラ設計の意思をついで、このメタファリカを支えるつもりでいたわ。でも、やっぱり、怖かった。ルカが言い出してくれるまでせっかくまたあんなところまで行ったというのに、今にも逃げ出そうとしていたわ」
「傷つくことを恐れることは変じゃないよ。誰だって痛いのはいやだもん」
「そうなのかもね。でもそんな私をお姉ちゃんは、ルカは支えてくれたわ」
だから、
「ありがとう、ルカ」
そんなことないよ、と反射的に呟いた。
本当に、そんなことないんだよ。だって自分はあなたに共感できていない。共感できない痛みなど痛くない代わりにとても軽い。そこから生まれた軽い気持ちで自分はあの質問を口にした。そこから生まれた軽い思いつきでたぶん大丈夫だろうとあたりをつけた。そんな軽い気持ちから質問をして、その返答を受けてふらつくあなたの手を握っただけ。
だから、全然そんなことない。
再び背後でかさりと草葉が鳴った。こんな至近距離だ。クロアにもこの会話は全て聞こえている。二人の様子に思うことがあるのかもしれないが、見張りに徹するつもりなのか彼はそれ以上振り向く気配がなかった。
いっそ振り向いて、もう時間ですよ、とこの場を打ち切ってほしかった。罪悪感は心を許してくれた妹の笑顔を見るたびに募る。そんな表情を見せてくれて嬉しいはずなのにその嬉しさが辛い。
クローシェが再び口を開く。
「ねえ、さっき、何を思いついたの?」
「え?」
「あの質問をしたとき、ルカが何か思いついた顔をしていたような気がするの。何を思いついたの?」
「ああ……それはね」
本当の本当に軽い思いつきだ。なんということではない。
「二人ともインフェルさんが世界を恨んで消えていったんじゃないかって思っていたんだよね? でも、多分、そうじゃないなって、なんとなく、本当になんとなく思ったの」
「……それは、どうして?」
「うんとね」
目を伏せて思考をめぐらせる。思考がまとまらずそのまま言葉になっていた。
「インフェルさんとネネシャさんって、大昔に、メタファリカを二人で歌ったんだよね? あの世界を創生する歌を。それもインフェルさんはレイカちゃんと同じ方の歌を」
ルカの散漫な言葉にクローシェもわけがわからないと膝の上で小さく首をかしげる。
ああ、上手く言葉に出来ない。どう伝えればいいだろうか。この気持ちを、どう伝えればいいだろうか?
気持ちを伝える?
「うん、そっか」
目を瞑り、静かに息を吸った
「明日も 恵み溢れるよう
ささやく 水も木も こんなに優しい
大地よ 祷りよ 嗚呼」
「それは……」
クローシェは身体を起こした。
「かけがえのない この世界 両手に抱いて
清き日々を 歩む
ただ あまねく 祝福を 受け止めて
輝く 明日へ――」
自分に直接インストールされた歌ではない。なのであのときのことを思い出しながら言葉を思い出す。思っていたよりするすると出てきた。
考えてみれば当然かもしれない。だって自分は真剣に歌いながら誰よりも近くで、そして誰よりも真剣にこの歌に耳を傾けていたのだから。覚えているというのも少し違う。ただ自分の中の歌と共鳴するこの歌に心の中で耳を傾けて口ずさむ。
「恵みあれ この愛しき地に 紡がれし 想い湛え――」
「――光あれ この愛しき天 生くるものに」
「「――愛を永久に――」」
二人の声が重なる。
ルカが目を開けると目の前には涙ぐんだ顔のクローシェがいた。ルカの手を握って胸に当てる。
「そう、そうね。こんな歌を彼女もかつては謳ったんだものね」
「うん、私たちは歌を偽れない。それもこんな大きな歌を偽ることなんでできはしない」
400年前、大地を生み出すその歌を彼女は一度なりとも謳ったのだ。たとえ結果は失敗に終わったとはいえ、彼女は世界を愛しく想うその歌を心から謳ったのだ。
失敗の原因はインフェル・ピラの予想外の停止。それはI.P.D.を受け入れるはずだったインフェルの人として極自然に発生する心の闇を、何千もの I.P.D.らが知られてしまいエネルギー供給を拒絶されたためだ。
決して歌そのものや、それを紡ぐ彼女に偽りがあったわけでない。彼女は本心から成功を祈っていた。
ただほんの少しだけ、世界のほうに覚悟が足りなかっただけだった。
「だからね。きっと、インフェルさんは心底世界を恨んでないと思ったの。とても大事に思っていたからこそ、その反動がすごかったのかもしれない」
「……長い間のうちに大事に思うほうの気持ちがなくなっていた、なんてことは考えなかった?」
ああそうか、そういう可能性もあったのか。
軽い思いつきだったとはいえ、こうやって思い返してみるとなかなか的を射た意見だったのではないかとささやかに自信を持っていたのだが、至りもしなかった考えに一度は膨らんだ気持ちもしぼむ。
「あ、ほんとだね。えへへっ、そこまで考えてなかったかも。あーあ、いい考えだと思ったんだけどなあ」
気の抜けた返事にクローシェは小さく吹き出した。
「お姉ちゃんってば本当に……でも、その直感の鋭さがお姉ちゃんのいいところだよね」
え、ともらしてまた固まった。
意外な時に、意外な言葉に、意外な展開に、ルカの思考が再び止まる。そんな心境をやはり知ってか知らずかクローシェは言葉を続けた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「さ、さっきも言ったよう、それ」
「何度でも言う。嫌がれても言う。拒絶されても言う。何度言っても言い足りない。
ありがとう。私の傍にいてくれて。私を、支えてくれて」
「わ、わたしは別に何も……そんなこと言わるほどのことじゃないんだよっ? 本当に、ただの思いつきで――」
「ルカにとってただの思いつきでも、私には救いなの。それは私を支えてくれる」
救い、支え。
思いもよらない言葉に息が詰まる。
ルカの手を握り締めながら、その向こうにクローシェの力強く大きな瞳が見える。嘘やお世辞とは思えなかった。
「ルカがいてくれるから、私は立っていられるの。ルカがいてくれるから、私は大きな声を出せる。ルカがいてくれるから、私は恐れない」
クローシェの真摯な言葉が胸に刺さり、広がり、己の内側で満ちていくのが分かる。
それなのに思いつくのは否定の言葉だった。
「そんなことないっ。だって私いつもクローシェ様の横に立っているだけで何もしてない。何も言ってない。何も、できていない」
「そんなことはないわ。あなたは常に傍にいて私を見ていてくれているじゃない。私が迷ったとき挫けそうになったとき、一番に気づいてくれる。そして私に言葉をかけてくれる」
「それだけだよ!」
「それが一番嬉しいの。助かるの。安心するの」
ついにルカは言葉をなくしてうなだれる。それでもクローシェはまだまだ口を止めない。
「ありがとう、ルカ。ありがとう、お姉ちゃん。あなたが傍にいてくれて私はこんなにも幸せ」
だから。
ルカの手をそっと離してクローシェは立ち上がった。二人に背を向けて、木陰を抜けて、日の光を全身に浴びながら眩しいほどの笑顔を浮かべて振り返る。
「私は、宣言するわ。このメタファリカに、本当の理想国家を築くと。」
「それは歴史にある、過去の亡霊ではないの。惨めさを際立てるような飾りではない、本当の、本物の理想郷よ」
理想郷メタファリカ。それは信仰であり人々の支えであり、同時に、はるか昔に実在したという都市の名前を指す。そこでは全ての人が文化的な生活をし、誰も不幸になることがない素晴らしい制度が整い誰もが笑顔で暮らしていたという。
その子孫であるメタ・ファルスの民は己の先祖が築いたかつての栄光を、ささやかな誇りとして長いときを生きてきた。
「大地を生み出しただけでは国も人も変わらない。一時変わったとしても最初の興奮が過ぎてしまえば、きっとまた現実の穴が見えてくるでしょう」
クローシェが遠く空を見つめる。まるでそこには理想郷が本当に見えているかのように、力強い眼差しで。
「だから現実に疲れてうつむいてしまったときに、少しでもまた希望が持てるような国を作るのよ」
それはつまり皆が喜び浮かれているときに己は身を削ってまで国に、民衆に奉仕しつくすことと同意だ。己を厳しく律し、時に己を縛り付けて、この国にその身を捧げることになる。
どれだけの苦難があるだろう。どれだけの苦境があるだろう。どれだけの苦痛があるだろう。どれだけ苦しいのか、今までの経験をもってしてでもはかり切れない。
「私はこの世界が好き。この世界の人が好き。そんな私が好き」
そんなささやかで単純でそれ故に何よりも絶大な想いだけを胸に、彼女はその道を選ぶ。
たったそれだけの気持ちを抱いて果てしないその道を、力強く歩むのだ。
クローシェの髪飾りが、日の光を受けて眩しく輝く。思わず、ルカはその眩しさに目を細めた。
眩しい。彼女が眩しい。日の光より眩しい。
最も尊き命。彼女はそう呼ばれていた。
それはきっと血筋のためではない。彼女の持つ気高さと、崇高なる理想と夢が、自然と彼女をそう呼ばせるのだ。
そうだ彼女は美しい。彼女の意思は美しい。彼女の理想が美しい。それは誰よりも真っ直ぐで輝くほどに美しい。
目の前にすっと手が差し出される。クローシェの白い手がなんのてらいもなく差し出された。
「ねえルカ。私の傍にいて。私を助けて。私を支えて。私が足がすくんでしまったときには背中を支えて。私が立ち止まってしまったときには声をかけて。私が道をたがえようとしたときには私のこの手を引いて。
私はルカがいてくれるだけでどんな道でも力強く歩いていけるのよ」
そんな彼女が自分を求めている。傍にいてほしいと言ってくれている。傍にいるだけで彼女は安心できるという。何よりも甘い言葉。それを受けた自分は誰よりも幸せだ。
でも、と思いとどまる。どれだけその手に惹かれていても最後の一歩で引き止める。
自分の矮小さは誰よりも知っている。些細なことでも満足に出来ず人に手間と迷惑をかけてばかりで、そのくせ習得も遅く何度も失敗を繰り返しながら、わずかな成功でさえ人を十分に満足させるにはまだ足りない。
そんな自分があなたの傍にいていいのだろうか。あなたの美しさを穢さないだろうか。あなたのその純白の理想を、汚い色で染めてしまわないだろうか。
それが怖い。私なんかでいいはずがない。私なんかがあなたの傍にいてはいけない。
そんな思いが手に枷となって地面に縛り付ける。
できない。私にはその手を取る資格はない。
「クローシェ様」
それまで黙って立ているだけだったクロアが、二人のそばまで来ていた。
見ると、クローシェのかたわらで、クロアが膝をついて頭をたれていた。ひざまずいて、言葉を紡ぐ。
「僭越ながらこのクロア・バーテル、貴女の何よりも気高きその意思、理想の一助となるよう、御身を護る盾として、そして御身自身の矛として振舞うことを、どうかその許しを請いたく願います」
低く、普段は抑揚の少ない声には顔を見なくても分かるほどに熱い気持ちがこもっていた。いつも涼しげな目で何事もこなしてように見える普段の彼からは、到底結びつかないほどの熱量。
クロアの突然のしかし何よりも真剣な言葉と態度に、クローシェはルカに伸ばしていた手を引いてクロアの頭の上にかざした。
「ありがとう騎士よ。その願い私は嬉しく思います。どうか私を護りその矛となってください」
「ありがたく存じます。この身果てるまで貴女に仕えることを誓います」
「その言葉決してたがえぬように。それに」
クローシェは顔を上げてルカを見た。一瞬、その眼差しに座ったまま身をすくませてしまう。
「私の最も愛しい彼女にもどうかその誓いを」
「わ、私!?」
突然の言葉にルカの声が裏返った。その様子を見てにこりと笑ってクローシェが言葉遣いを崩す。
「ええそうよ。あなたはこれからずっと私と共にいる。私の半身になるの。あなたは私、私はあなた。あなたがいなければ私は成り立たない。だから私を護る騎士は同時にあなたにも誓いを立てる」
「そ、そんなの知らない知らない! 私はいいよ。私はクロアにそんな誓ってもらうほどのものじゃない。クローシェ様だけを護ってあげて」
「あら、そんなことは無理ね。だってルカが涙すれば私は怒るし、ルカが傷つけば私の心も傷つくし、ルカが死んでしまったりすればきっと私の心も一緒に死ぬわ。だから私を護ることはルカを護ることと同意よ」
さらりと殺し文句を叩く姿に、また少しクラリとしながらそれでも理性で踏みとどまる。
「違う違う! 私はそんなんじゃない! 私はクローシェ様みたいにきれいじゃない! 私は、私は……」
自分の矮小さはそして無力さは誰よりも知っている。理想もない、夢もない。ただその日をどうにかすごすことだけ考えて生きたきた。
何をやっても後悔と反省と自己嫌悪しか生まれない。そんな行動しか出来ない。自分の精一杯の行動はいつだって望む場所に手が届かない。
今だってそうだ。日々の忙しさを捌くことだけ考えて生きている。それさえ上手く出来ずに歯がゆく思う。クローシェのように膨大な現実の果てに美しき理想を見ることなど到底無理だ。
ただ上手に今日をこなすことだけを考えて生きてきた自分に、はるか道の先を見据えるクローシェの傍になんていられない。その盾となるクロアの加護にあやかる資格もない。
「私は、私は……二人の傍にいられるほど、力のある人間じゃないの」
ようやく本当の自分が、言葉となって生まれ出でる。
「俺は知っている」
突然の言葉に驚いて顔を上げると自分の前で膝をついて顔を覗き込んでいるクロアの顔が見た。先ほどまでの熱はどこかに身を隠し、代わりにいつもの冷静で涼しげな瞳をしていた。
「俺は知っている。ルカが、貴重な休憩時間を削ってまで、何度も何度も資料を見直していることを」
低く淡々とした声だった。
「ルカがクローシェ様のことをよく見ていて、誰も気づかないような変化の度に声をかけていることを知っている」
連日のすさまじいスケジュールの果てに、クローシェは熱を出しているにも関わらずそれを化粧と表情で誤魔化していることに気づいてあわててその日の予定をキャンセルさせた。その代わりとばかりに自分が出席して、倍になった仕事を泣き言をもらす暇さえなくこなした。
「ルカが発言してくれたおかげで話し合いがうまく進んだことも知っている」
いつかの会議でクローシェと他の陣営との意見が衝突し、著しく会議が滞ったときがあった。ぴりぴりしているクローシェに脇で自分なりに真剣に考えて気づいたことを二つ三つ進言した。その言葉を受けてクローシェは何かひらめいたのか次の発言から驚くほどに話が進み、その後もきれいに話がまとまったのだ。
「ルカがいつも皆に気を配ってくれてそのおかげで式典が上手くいったことも知っている」
主要な役職の人物らはメタファリカの創生以降連日の式典や儀式のおかげで、誰も彼もがつかれきっている。そんな彼らに声をかけて励ました。クローシェと同じく彼らだって疲れているだろうから、少しでもその励みになるようにとできるだけ笑顔で接していた。
「ルカがクローシェ様の演説の前に挨拶してくれるおかげで、皆がその後の話を真剣に聞いてくれていることを知っている」
難しい内容に思えてもそれはクローシェなりに噛み砕いてまとめた内容だった。最初から構えずに接してくれればきっと皆も理解してくれると思って、率先して挨拶してまずは緊張した空気を和らげようとした。
「ルカが様子のおかしなクローシェ様を見て励まそうとして、夜遅くにまで押しかけたことを知っている」
一人で思い悩んでいるようだった。一人で思いつめている様だった。それはいけないと思った。だからどうにかしたいと思った。それだけだった。
「俺は全部知ってる。ルカの傍で、全部見てきたから知っている。ルカの努力と気配りのおかげで、クローシェ様が助かっているのを知っている。ルカのおかげでクローシェ様の行動は全部上手くいくんだ」
「ええ、私も知っているわ。ルカのおかげで今の私がここにあると」
だから、と二人は声をそろえた。
私は上手にあなたの役に立っていますか。
私は上手にあなたの力になっていますか。
私は上手にあなたの支えになっていますか。
いつだって自信がなかった。
いつだって力が足りないと思っていた。
いつだって頼りにされていないと思っていた。
「ルカはクローシェ様の支えだ。間違えようもない。俺がそれを知っている」
「そうよ、あなたは私の支えなの。だからどうかこの手を取って」
もう一度、クローシェの手が差し出された。
その白い輪郭が歪んで見える。
それでも役に立ちたかった。
それでも力になりたかった。
それでも支えになりたかった。
二人のそばにずっといたいと思っていた。
二人の隣で歩きながらその道の先を見てみたかった。
二人と共にありたいと望んでいた。
ずっと、そう思っていたの。
指の長いきれいなその手に、おずおずと伸びた小さな手が重ねられた。
Return.FRELIA
メタファリカは希望だといわれながら、その実、人々を何度も絶望のふちに追いやってきた。
その存在こそが戦乱の火種となり破滅のきっかけとなり、絶望を生んだ。
ようやく芽吹いたその大地は屍の上に咲いている。
美しい新緑の下に、深い深い深い、深くて底の見えない血の川があった。
誰にも心地よく映る見た目とは裏腹にその大地は誰もが目をそむける歴史を背負っていた。
「でもね、エンジャ」
眼下に見える雲海に漂うささやかな大地。
「見てきたの。眠りながら、夢のような形で、分身の目を通して見てきたの」
人は夜を恐れていた。暗い空を恐れていた。己の中の闇を恐れていた。
しかし人は互いに微笑みあうことで、恐怖を振り払った。
暗い場所でも、闇の中でも、互いに月となり光となってその先を照らした。
それを愛と呼んでいた。
天空への塔のインビジブルモードを解除するあの詩を実行したとき。背中越しに伝わるあの想い。胸がぎゅうっとするほど切なく、けれど高らかにこの世界があることを喜ぶあの詩。
思わず握った手はわずかに震えていた。
そして人は祈った。
この愛を失いませんように。
たとえ孤独が舞い降りようとも。
結ばれた愛を照らす希望となりましょう。
互いが互いの光であり続けましょう。
誰よりもそばで見ていた。まどろみの中、わずかな意識でぼんやりと。
メタファリカのために実の母も、育ての父と母も、そして妹をなくした少女。
全てを自分の罪とした。自らが涙を流すことも、自らを省みることも、自らで許さなかった。誰よりも誰かのために生きてきたはずなのに、それさえ自身の罪の結果だと心を縛り付けていた。
「だからね」
血の川でもがき苦しむ人々が互いに光を持ち寄ってやがて集った光は大地となった。
瓦礫と屍の上に聳え立つ大地は光に満ちていた。
目蓋に焼きついている。
成功したことさえ戸惑うように立ちすくんでいた彼女の下に、迷わず駆け寄り成功を喜ぶ金髪のもう一人の少女と黒髪の少年の姿が。
喜ぶ二人の前でもうなくしてしまった誰かの名前をこぼして、涙を流す少女の姿が。
「この世界は、とってもきれい」
自分は何も成すことはできないのだと定義していた少女は、あの時確かにかたわらの二人を通じて何かを成したのだと、ようやく息を吐き出した。
どうか忘れないでください。
どれだけ時が過ぎようとも、この世界は愛に満ちているのだと。
愛こそがこの世界を形作っているのだと。
この世界は、あなたを愛しています。